それを、そばで聞きながら、育つ。桑野和泉さんのビジネスパーソンとしての『源流』は、そんな「大人たち」の「まち」を思う会話だ。玉の湯の経営を引き受けたのも、その思いを継ぎ、次の世代へ渡すためだ。100年単位の流れを守る一人になる、そう決意したからだ。

 由布院玉の湯は、元は禅宗の保養所だ。母・喜代子さんがその寺に生まれ、養女に入った溝口家が7部屋の宿を開業した。父は同じ大分県の日田市の博物館に勤めていたが婿入りし、玉の湯の経営を担う2代目当主となった。

 1964年8月に大分県湯布院町(現・由布市)に生まれ、両親と妹が2人の5人家族。地元の由布院小学校は1学年に約200人。日本の経済成長が続くなか、開発の嵐に対する「大人たち」の会話は続く。宿は忙しく、両親と一緒に食事や会話をした記憶はない。でも、同級生らがいつもきて、溜まり場だった。

 中学校時代、「大人たち」はますます忙しい。「自分のまち」という思いが生まれ、膨らんでいった。大分市の県立大分雄城台高校へ進み、83年4月に東京都品川区の清泉女子大学文学部へ入学する。

 87年4月から、都内のホテルオークラで働いた。いずれ家業を手伝うつもりだったが1年程度、シティーホテルの仕事を経験したかった。多忙なフロントや食事どころのほかに、クロークや宴会の予約係など「裏方」が支える実情から、多くを吸収する。『源流』からの流れが、着々と、水量を増していく。

 翌年初春に帰郷し、地域の病院で勤務していた医師と知り合い、89年に結婚。その後、夫の転勤で2度目の東京住まいになるが、「由布院へ帰りたい」との思いが募っていく。92年4月に夫とともに由布院へ戻って、8月に長男を出産。9月から玉の湯で働き始め、95年に専務に就いた。

 90年代後半、由布院の北側が米軍演習場の候補地になった。「静けさ・緑・空間」に、似合わない。反対の署名を集め、首相官邸へ届けた。結局、演習場は設置されたが、敗北感はない。1年を超す署名集めが新たな力を生み、『源流』からの流れが強くなる。

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