
盆踊りは「炭坑節」が、華だった。「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ。三池炭鉱の上に出た」と口ずさみながら、「踊りは小さいころに覚えて、会社に入ってからも何かあると炭坑節を歌いながら踊りました」と振り返る。
三池炭鉱では江戸時代から石炭を掘り、明治政府の競売で三井組(三井財閥)が落札し、翌年から三井鉱山が経営して「石炭のまち」として発展する。ところが、第2次大戦後、エネルギー源が石炭から石油へ代わっていくと、採炭量が減り、人員の整理も進む。労働組合と会社は対立して、60年に「三池争議」の名が付いた大争議へ発展した。
父は荒尾市の四山坑の坑口責任者で、労務も担当していた。会社の立場で労組と激しくやり合う傍ら、人員整理で仕事を失う人々の働き場を探すために走り回った。地域経済の立て直しにも、心を配っていた。淡輪敏さんは、その父の「みんなのため、地域を守るために」という姿が、ビジネスパーソンとしての『源流』となった、と言う。
その三池炭鉱へ、94年8月に赴任した。三井鉱山が石炭からできるコークスなどの活用に設立した東洋高圧工業と三井化学工業が68年に合併し、できた三井東圧化学(現・三井化学)へ、76年春に早稲田大学商学部を卒業して入社。主に人事・労務畑を歩んだ。
大牟田市でも、工場の人事課長になる。故郷へ「凱旋」した形で、級友たちと再会を楽しんだ。だが、時代の流れは、容赦ない。3年目の97年3月、三池炭鉱の有明坑が閉鎖される。三井グループの石炭採掘が、終わった。職場を離れる人々の処遇を巡り、労組と激しい交渉が続く。
炭鉱閉山で湧き出す父の「みんなのため、地域のために」
ここで「みんなのため、地域のために」という父の姿から生まれた『源流』から、勢いよく流れが湧き出す。石炭の採掘がなくなれば、影響は従業員と家族にとどまらない。協力会社からタクシー会社まで、多くが仕事を失う。その再就職の斡旋に努めた。
『源流Again』で、当時は三井東圧化学の大牟田工業所だった現・三井化学大牟田工場も訪ね、事務棟の屋上へ上がった。「これはいい。工場が全部みえるし、街が一望できる」と喜び、「私が住んでいたのは、あそこの建物の向こう側です」と指を差す。