だけど、「こいつは願いごとを頼まない。欲のない人間だ、よしわかった、こいつの願いごとをかなえてやろうじゃないか」と神様が思ってくれれば「ヤッタね」ということになりますが、こちらの確信犯的な戦略がバレると、「神をだましたなア」となって、ヘタすると罪を与えられるかも知れません。まあ、そこは参拝者の心が如何に純粋であるかどうかという透明な心にかかっていると思います。
いずれにしても神様は全てお見通しです。わが家の近くに喜多見不動堂というのがあります。最近は息切れが激しく、ここへの急な坂道はかなりきついので、しばらく足が遠のいていますが、以前は散歩がてらによくお参りしたものです。お社の裏辺りに狭くて細い暗い洞窟があって、その奥に石像の不動明王が祀られています。その洞窟に這入るのはちょっと不気味だけれど、それだけにご利益がありそうにも見えます。本堂に参ると必ずこの洞窟にも参っていましたが、いつしか参らなくなってしまいました。
そんなある日、僕は夢を見ました。どうやらここはインドらしく、木が一本もない、赤茶けた土の山の中に、トンネルがあって、トンネルといっても人ひとりがやっと通れるくらいの洞窟です。洞窟なのに中は実に明るい。歩けど歩けど実に長い洞窟で、やっと洞窟の突き当たりまで来たところに、仏像が祀ってありました。その仏像が僕の意識に語りかけてきたのです。
「随分長い間来ていませんね」と。
その時僕はハッとしました。家の近くの不動堂の不動明王であることがわかって、ハハーッと心の中で跪いていました。不動明王はインドではシヴァ神の化身ではなかったかな。この夢を見た日から僕は再び不動堂に参ることになりました。夢は単に夢かも知れませんが、この時、神仏は全てお見通しなんだと悟りました。昔は夢を通して神仏がメッセージを送ったと聞いたことがあります。僕がこの夢を信じたら大方の唯物論者は非近代的なことを信じるなあと言って笑うかも知れませんが、僕の中に唯心的な意識があることを信じています。というのは絵は物質的な素材を利用しながら見えない心的な世界を描くことに於いては唯心的です。唯物論というのは世界の本質はすべて物質であると説く世界観ですが、唯心論は世界の本質は心的なものという考え方です。人間が肉体的という物質的存在であると同時に心的存在でもある以上、この両者はわれわれの中に内在しています。僕の場合は絵を描く生活と生き方を母胎にしているので、唯物という傾向よりは心的な傾向が強いように思います。だから目に見えるものに対する信仰と同時に、目に見えないものに対する信仰もあります。だから、神仏に対する関心も強いのですが、やはり僕の信仰は芸術であると思います。すでに芸術の中に神仏が宿っていると考えているからです。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年1月20日号