加計呂麻島は8割以上が森林で、大きな会社や工場はなく、薩川の集落も半農半漁のような暮らし。でも、不便でも、課題があっても「自らの力で切り拓く」という自立心が、人々の気風だった。
自宅近くの薩川小学校で、忘れていないのは校歌だ。3番に「七つの洋(海)に船出せん」とあり、聴くたびに「海へ出て、海外へいけ」と言われているようだった。
集落の前には、薩川湾が広がる。父からよく「以前はここに戦艦『長門』や『陸奥』がきて、錨(いかり)を下ろして必要なものを積んでいった」と聞いた。母は「静かな湾で、台風が近づくと、船の避難港になる。錨を下ろし、多いときは沖に外国船を含めて20隻、30隻とみえる。あれに乗ると、外国へいけるぞ」と言って、「決して井の中の蛙になってはいけないよ」とも説いた。
小学校の校歌と母の言葉が重なり、「将来は船長になって、外国へいってみたい」との思いが育つ。5年生のときに父が奄美大島へ転勤し、家族で引っ越した。このとき、奄美の空港で生まれて初めてみた飛行機が、75年に奄美大島〜伊江島間で就航した全日空の国産プロペラ機「YS−11」だ。
中学校は奄美で卒業し、高校は父の勧めで鹿児島市の県立甲南高校へ。当然、船で島を出る。「七つの洋(海)に船出せん」の始まりだ。大学は東京外国語大学の中国語学科で、「外国へいきたい」との思いへ向けて、外国語を身に付けるつもりだった。
だが、1976年4月に入学すると空手部で部活に明け暮れ、中国語の勉強は後回しで、3年生で主将も務めた。すると、4年生になる前、空手部の部長の中国語の先生に呼ばれる。言われた言葉に、はっとした。「クラブ活動は頑張ったが、少しは勉強もしようね。外国語大学の卒業だと言うと、社会に出れば自分の専門語くらいはペラペラ話せて当然、と思われますよ」
思い直し、中国旅行のツアーコンダクターのアルバイトを探して、中国語を磨こうと考えた。でも、校内を歩いていたらポスターが目に入る。
「在外公館派遣員募集」
そこに、北京の日本大使館の求人があった。試験を受けて合格し、大学4年生は休学して北京へいく。