空港担当に始まり、チャーター便開設や非航空のホテル事業、国際定期航路の新設、格安航空会社の活用と経験は多様。何があっても平気だ(写真/山中蔵人)
空港担当に始まり、チャーター便開設や非航空のホテル事業、国際定期航路の新設、格安航空会社の活用と経験は多様。何があっても平気だ(写真/山中蔵人)
この記事の写真をすべて見る

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年6月9日号より。

【写真】この記事の写真をもっと見る

*  *  *

 1996年3月、国際業務部の主席部員になった。課長級だが、部下はいない。仕事は「稼げる国際線」の定期航路の開拓だ。

 持ち株会社ANAホールディングス傘下の全日本空輸(全日空)の国際線の定期便への進出は、86年3月の成田〜グアム線への就航で始まったが、集客力が足りず、ずっと赤字だった。社内には「もうやめたらどうだ」との撤退論も、出ていた。でも、「いや、いつか黒字にできる、必ず黒字にさせる」と思い、国際業務を希望し続けてきた。

 そんな社内の風向きとは逆に、99年10月、当時の野村吉三郎社長は前へと踏み出す。米ユナイテッド、ルフトハンザドイツなど主要国の国際航空会社が連合する「スターアライアンス」への加盟だ。スターアライアンスは97年に5社で結成され、全日空の加盟は9社目。この決断がなければ、今日の全日空の姿もANAホールディングスの誕生も、なかっただろう。

 国際航空連合を「稼げる国際線の定期航路」の開拓に、存分に活用した。故郷・鹿児島県の加計呂麻島で少年時代に「海外へいきたい」という思いを生んだ『源流』からの流れが、背中を強く押す。

連合各社との連携に昼は会議、夜は会食主席ならぬ酒席部員

 メンバー各社と「コードシェア」と呼ぶ共同運航を増やし、双方の集客力を合わせて空席を埋めていく。昼は各社との会議、夜も会食の相手をした。振り返れば「主席部員ではなく、酒席部員でした」と笑う日々だ。国際線の収益は改善し、2005年度決算で、ついに黒字へ転じた。

 1957年8月、鹿児島県の奄美大島で生まれ、すぐに父の転勤で、船で南へ約30分の加計呂麻島の薩川集落へ転居した。父は中学校の英語教諭、母も小学校の元教諭で、3歳上の兄、3歳下と6歳下の妹の6人家族だった。

次のページ 大学4年生は休学して北京へいく