『鉄のカーテンをこじあけろ』ジョン・ポンフレット著
染田屋茂 訳
朝日新聞出版より発売中

 一九九五年一月十七日に「ワシントン・ポスト」紙は特ダネを掲載した。ポーランド情報機関が、一九九〇年のペルシャ湾岸危機の最中にアメリカのスパイをイラクから救出していたと報じたのである。「ニューヨーク・タイムズ」紙をはじめとする各紙が後追いする衝撃を与えた。

 本書は、このスクープを放ったジョン・ポンフレットがその後も調査取材を重ねた作品であり、体制転換期のポーランド情報機関の活動と対米協力の実態を明らかにしている。スパイの手口はもちろんのこと、体制転換から今日までのポーランド政治の概要やNATO(北大西洋条約機構)加盟交渉など多様な知見を与えてくれる。

 私は本書を通じて、一九八九年のポーランド体制転換が政治体制の民主化だけではなく多面的性格を有していたことを再認識した。とりわけ、体制転換がナショナリズム運動としての性格も持っており、ナショナリズムの変化がポーランド政治を理解する鍵のひとつであると教えられた。

 一九八九年に街頭デモに参加した人々は、政治的自由と経済的豊かさを渇望し、ソ連の軍事的支配からの解放も求めた。当時の体制側は「連帯」の準備不足を見越し、エリートの地位を温存すべく権力移譲の交渉に応じた。

 実際、ポーランドの体制転換とほぼ同時に現実化した東西ドイツの統一に対応するため、「連帯」指導層はソ連との関係を悪化させられず、旧体制幹部も留任させざるを得なくなった。こうしてポーランド新旧両体制の幹部たちは、ソ連(ロシア)とドイツとの板挟みになってきた歴史の克服を目指すナショナリズムで連携した。

 この背景には、ポーランド西部国境(いわゆる「オーデル・ナイセ線」)に関する西ドイツの両義的姿勢があった。西ドイツは、オーデル・ナイセ線をポーランド国境として認めながら、第二次世界大戦後にポーランドの管理下に置かれた旧ドイツ東部領土に対する主張を続けていた。

 ポーランドは、この状態のままドイツが統一することを警戒した。NATOもEC(欧州共同体)も東方拡大していない当時の国際環境で統一ドイツが国境再交渉を要求したら、ポーランドはソ連に安全保障を依存せざるを得なくなるからであった。ポーランドは、ドイツ統一後もオーデル・ナイセ線を尊重する意思の表明を西ドイツに求めた。

 本書によれば、ポーランド情報機関は、西側に接近する意思を示して欧州諸国やソ連を揺さぶり、西ドイツに国際的圧力をかけて国境の不変性を確認させる構想を体制転換直前に作成した。体制転換後の新たな権力者たちはこの構想を支持し、西側に接近する実務を旧体制期のスパイに担わせた。アメリカもポーランド情報機関の存続を求めた。

 オーデル・ナイセ線を最終的な国境として西ドイツに確認させる目標は、一九九〇年十月のドイツ統一までにおおむね達成した。しかしポーランド国内では、新旧体制間の権力移譲や経済政策に関する見解の相違などから、体制転換を主導した「連帯」内部の対立が深刻化していた。

 このうち、後に右派ポピュリスト政党「法と正義」を結成するカチンスキ兄弟らは、ワレサやマゾヴィエツキ首相から距離を置いた。そして非共産化の徹底とポーランドによる自己決定の最大化を主張して政界再編を仕掛けた。

 政権を握った「法と正義」は、この価値観で過去も解釈し、ソ連に追従して人権蹂躙に加担した咎で情報機関職員を含む旧体制関係者を糾弾した。その手法は、刑事訴追を頂点にして旧体制協力者の認定や年金減額にまでおよぶ陰湿なものである。ナショナリズムは新旧体制を分断する刃に変質したのだ。アメリカはこの変質を直視せず、対米接近に貢献した元スパイに対する圧迫も傍観した。

 しかし、ナショナリズムの変質は国際的緊張を招いた。一例がウクライナとの関係である。ポーランドはウクライナがソ連から独立することを支持した。しかし、その後両国関係は変容した。第二次世界大戦中にウクライナの親ナチ組織が行ったとされるポーランド人虐殺、あるいは戦後にポーランドの行ったウクライナ系住民の強制排除についての責任追及は最近まで両国関係の主要争点であった。

 これらの事件は、ドイツ、ポーランド、ソ連(ウクライナ)などの領土が二度の世界大戦で変化したことを背景に発生した。それゆえ、歴史認識論争は領土紛争に発展しかねない危うさがある。ロシアのウクライナ侵攻によってポーランドとウクライナの歴史認識論争は沈静化しているものの、戦況が落ちつけば再燃する可能性がある。

 スパイたちの群像を通じて体制転換の隘路とアメリカの対外関与の問題点を指摘した本書は、ウクライナでの戦闘が収束した後の国家再建や西側諸国の関与についても多くの教訓を与えてくれるであろう。