現代の感覚ですと、いくら呪詛であってもお経を唱えるだけならさほど怖くないように思えます。しかし、当時の常識では違います。例えばよく知られている伝統的な呪詛に、藁人形に釘を打ち込むものがあります。科学的には何の効果もなかったとしても、知識のない人々は実際にやられてしまうと苦しくなってしまうわけです。そのような非科学的な部分、思い込んでしまうところに関わってくるのがオカルティックな人々であり、一般人の目からすると、政元はやはり「近づかない方がいい人」という扱いになって当然でしょう。
本章の冒頭で紹介した『足利季世記』での記述も、政元がオカルト的なことに傾倒して、理屈の外の世界にいる神に由来するような特別な能力を得ていたことについて「一般の人たちが大勢知っているはずだ」のような形で書かれています。これは、彼を畏怖し遠ざける評判がかなり普遍的に広がり、ある種の常識になっていたことを示すのでしょう。
実際に政元が呪術を操る方法を持ったかどうかはこの際、横に置きましょう。当時の人々の感覚としては「政元が何か変なことをしている」「政元は何をするか分からない人間だ」「政元は不思議な力を持っているに違いない」という三段論法的な理解がなされて、評判が作られたのだろう、と考えます。
この裏付けになるのが、政元が修法を修めたり、鞍馬寺で兵法を学んだりしていることです。現代においても史料で確認できる事実が、当時の人々の目では「そこで一緒に不思議な技も学んだのだろう」と繋がっていくのは容易に納得できるでしょう。
『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱以降の“激動の時代”を解説しています。

オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」 (朝日新書)