
芸人仲間から孤立し 「自分はつまらない人間」
自分が人を笑わせる側になったのは、中学2年生の時だった。修学旅行のときにクラスで催し物をすることになり、石田のクラスはお笑いをやることになったのだ。しかし修学旅行の直前になっても、何もできていない状態。石田が劇場に通っていることを知っていたクラスメイトから、ネタを書いてほしいと頼まれた。見よう見まねで漫才やコントの台本を書いたら、そのネタが先生にも生徒にもウケた。
「それはウケますよ。ほとんど劇場のパクリですもん。それまで目立たなかった僕が急に目立ち、『うわ、めっちゃ気持ちいいやん』と思いました」
石田のお笑い好きはその後も変わらなかったが、芸人になろうとは思っていなかった。当時の石田は、父親が生きてきた道をたどるような人生を歩んでいた。高校では父の趣味でもある野球に打ち込み、卒業後は父親と同じ板前になろうと大阪の懐石料理の店に修業に入った。
父に認められるような板前を目指し修業を始めて1年ほど経ったころ。店のオーナーと折り合いが悪くなった料理長が、板前を連れて別の店に移ることになった。「明も来るか?」と聞かれ、「行きます」と答えた。しかし、続けて料理長からはこう言われた。
「明は鼻が弱く、嗅ぎ分けられるものが少ない。一流の板前にはなれないかもしれない。それでもついてくるか」
思わず「考えさせてください」と答えた。最初から料理長はあきらめさせたかったのだろう。
「お前はついてこんでええ。やりたいことをやれ」
そう言われ、石田は泣きながらやめることを決意した。同じころ、高校の同級生からお笑い芸人のオーディションに誘われ、心斎橋筋2丁目劇場で舞台に立つことになった。その時のことを石田は今でも忘れられない。
「初めて空気の匂いがしたんですよね。鼻がスッと通った。やっと、自分の人生を歩んでんねんなっていう気がして、めっちゃ気持ちよかった」
それまでは父親に認められたい一心で生きてきたようなものだった。芸人になると決め、石田は父のレールからはずれた。(文中敬称略)
(文・仲宇佐ゆり)

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