私小説の大家である作家の最後の連作短編集。自らに流れる血を肯定できず、苦しんだ物書きの主人公が築いた家庭の日常を描く連作『素顔』の続編になる。
50代半ばになった主人公は、妻と娘3人と東京で暮らしている。物語は、吐血した主人公が病院の個室で臓腑が破れる音を回想する場面に始まる。縁側の揺り椅子で妻がひっそりと泣いていたと聞かされ、妻に問いただすと、妻は夫の希望で染髪をやめたものの、知人に言われた言葉を吐露する「涙」。夜が明けたばかりの時間に台所でしのびやかな物音を立て、厚焼き卵をこしらえていた長女が「一番気の合う男友達」に会ってほしいと話す「春」。平穏な暮らしの中に歳月の深まりが感じられ、9話目の未完が惜しまれる。巻末に長女の文章と、佐伯一麦による解説が添えられる。
※週刊朝日 2016年11月18日号