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米国の水爆実験で第五福竜丸が被ばくして71年がたつ。だが、第五福竜丸以外にも被災した船が延べ1千隻近くあったことは、あまり知られていない。AERA 2025年3月3日号より。
【写真】ビキニ被ばくから71年 定期的に集まり情報交換をする元船員たちはこちら
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マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験があった1954年3月1日、静岡のマグロ船「第五福竜丸」はビキニから160キロ地点で被ばく、船員にやけどなどの急性症状が出たため、急いで日本に引き返した。
だが爆心地の周辺には、事態を知らない船が多数いた。高知県室戸市の久保尚(ひさし)さん(88)を乗せたマグロ船「第二幸成丸」も太平洋上にいた。
実験のときは爆心地から2千キロ地点。17歳だった久保さんたちは、まさに爆心地のマーシャルの漁場を目指していた。
実験の10日後、船は爆心地から約1400キロ東で、操業を始めた。放射能で汚染された「死の海」で、20日間以上マグロを捕り続けた。この間3月27日に、ビキニで再び水爆実験があった。船はもっとも爆心地に近い一隻だったが、久保さんは「(核実験があったとは)わかりませんでした」と話す。
水爆実験は日本に戻る際にもあった。「近くで水爆実験があった」という無線をもとに、晴れた日でも「かっぱを着ろ」と注意されたが、炊事担当で船内にいることが多かったので、恐怖は感じなかった。
「雨粒が黒く見えたことがありました。黒い粉が混じっていたかもしれません」
「黒い雨」も見たかもしれない。
東京・築地市場に入港すると、白衣姿の人たちから、ガイガーカウンター(放射線測定器)で計測された。結果は知らされなかったので、健康上の問題はないと受け止めた。
60歳で総入れ歯に
年月がすぎ、同じ船の船員たちが、若くして亡くなったと聞くようになった。50代で、がん、心臓まひで倒れた人もいた。久保さんも60歳で総入れ歯になった。
思えば、被ばくの可能性は十分にあった。米を炊くときは真水だが、米を研ぐときは海水を使った。歯磨きも海水。海水で体を洗い、釣った魚の刺し身を毎日食べた。
「なんで当時、国は健康診断をしなかったのか」