正直、ホテルの防犯カメラについては、私は百歩譲って理解できるのである。「どうしてもどうしてもどうしてもこの映像を使いたかったんだ!」と、ホテルからの訴えも辞さない覚悟で使用したのだと伊藤さんが言うのならば、それは伊藤さんの勝手である。あの映像で「尊厳が傷つく人」は具体的にはいないとも言えるからだ。ただ大きな懸念は、今後、性被害者が現場となった映像の防犯カメラ映像を提供してくれ……と依頼した時に、今回の伊藤さんの振る舞いが影響を与えないとは言えないことだ。
大きな正義の前に、圧倒的な大きな正義の前に、小さな恐怖や不安や個人の尊厳を打ち消すことは許されるのだろうか。私はそうだとはどうしても思えない。だから、伊藤さんの闘いがこんなふうに世界に知られることを喜ばしいと思う一方で、心から本当によかった、本当によかった、と安堵できないのだ。そのことが悲しい。
今のところ、日本での公開は未定だという。そのことをもって「日本ではシオリの映画を上映できないんですってね、悲しいことね」などと、海外に暮らす友人はもっともらしく言ってくるのだが、複雑な気持ちになる。そうね、もちろんこの国は女に厳しく、性暴力の問題に疎い国です、でもこの映画が上映できないのはソレダケの話じゃないのよ……と言いたい気持ちをどう表現できるのだろう。なぜ、正義を語るのはこんなに難しく、そしていつもいつも小さな声と小さな叫びは斬り捨てられていくのだろう。
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