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先日、東京新聞の望月衣塑子さんが、「Black Box Diaries」のなかには性被害を巡る集会に参加した女性記者の映像も許可なく使われていることを報じた。伊藤さんの闘いに触発されるように、ジャーナリストの女性たちが次々に#MeTooを表明する重要なシーンである。でも、その女性たちの映像に許諾がないのだとすれば、伊藤さんは自らの正義を行使するために、同意を疎かにしたということになってしまう。いくらなんでもそれは……やってはいけないことではなかったのか。
また、無断で録音された西廣弁護士との会話も、重要なシーンである。弁護士の意見が伊藤さんと対立する場面だ。当然この映画は伊藤さんの視線でつくられているので、西廣弁護士の意見は「非合理的な弁護士の一方的ななだめ」のように聞こえてしまう。それは、伊藤さんが社会からも孤立した上に、自分の代理人からも孤立する厳しさを表現する緊迫感がある場面である。ハラハラする。西廣弁護士がどれだけ真摯にこの事件に向き合ってきたかを知る者として、胸が締め付けられる。もしあれが自分だったらどうだろう。語った事実は事実である。録音があるから事実である。でも、文脈がある、私には意思がある、それなのに、一方的に物語にあてはめられて拡散されていく……。それはどれほど怖いことであろう。
さらに、名前を明かすことを恐れていたであろうタクシー運転手の顔が堂々と映されているのも、胸が締め付けられた。この人は、そもそも自分が撮影されていたことを知らなかったのではないか。本人には気が付かれない角度で撮られているように見える。伊藤さんはこの件を問われ、「連絡を取ろうと思ったが取れなかった。亡くなっているのかもしれない」と代理人らに伝えたそうだが、亡くなっているかどうかの確認はとっていないという。
許諾が取れていないとされるどのシーンもインパクトがあり、強い意味がある。でもいったいなぜ、伊藤さんは許諾を惜しんだのか。それほど、表現者としての思いに打ち勝つのは難しかったのだろうか。性被害当事者として必要な真実であっても、それはジャーナリストとして抑制すべきものではなかったのだろうか。