「この映画を観て、本当に暴力を振るわれたようでした。弁護士なので感情的な振る舞いは慎むようにしてきましたが、正直、ズタズタにされた気分です」
実際、西廣弁護士は上映後に、あまりのショックに放心状態になったという。
伊藤さん側は、この件に関する代理人を立て西廣弁護士らに抗議し、ホテルからの映像はCG加工し、取材源の刑事の声は変えたと主張している。伊藤さんの代理人は朝日新聞の取材に答え、許諾のない映像が何カ所かあることを認めた上で、「映像記録がほとんどない性暴力の実態を伝えるため、映像を使う公益性が上回ると考える」としている。
「Black Box Diaries」は現在世界30カ国以上で上映され、様々な賞を得ている。アカデミー賞にノミネートされただけでも、作品として十分な力があることは間違いない。私は海外のストリーミングで観たが、確かに、圧倒的な映像の記録と、抑制的なモノローグは強いインパクトのあるものではあった。
でも……でも……と、私のどこかでどうしようもないモヤモヤが募ってしまうのだ。
真実を暴くのが正義である、それを暴くのがジャーナリズムである。
その通りでしょう。
でも、その「暴き方」は問われないのか?
問題を複雑にしているのは、伊藤さんがカメラという権力を握っている一方で、伊藤さんが性被害当事者だからである。だからこそ、ふだんは「カメラの暴力」というものに敏感な人たちでも、いざ、そのカメラを握るのが「大きな権力と闘う被害当事者」であった時にひるむ。
実際この問題について語ろうとすると、「ルールに縛られるのが正義か? 性犯罪の現場を押さえた映像でも使用するなと言えるのか?」「これは安倍政権時代からの問題でもある。公共の利益のために必要な映像なのだ!」と西廣弁護士らの訴えに怒るジャーナリストもいる。「伊藤さんへの誹謗中傷をさらに強める気か?」と、伊藤さんを批判することを許さないという支援者もいる。