サラブレッドは、北海道の太平洋岸の山野を中心に年に何千頭も生まれ、兆円規模の産業だ。襟裳岬へかかる日高地方は「競走馬のふるさと」とも呼ばれるが、母親となる牝馬を1、2頭持つだけの小さな牧場も多い。生まれた仔馬を買い取って、競走馬へ育て上げてくれる仕組みが広がれば、小規模でも経営が続けやすくなる。

 ただ、銀行には「競馬」という言葉を聞いただけで「ギャンブルはダメ」という表情になる上司が多い。融資実現には、その面々に「ギャンブルを応援するためではない」と、頷いてもらう必要がある。競走馬のことを知るため、調教師や騎手に話を聞き、北海道庁の関係部署のアドバイスも受けた。「故郷のために、北海道の人たちのために」の思いが、背中を押す。

『源流』が生まれた池田町を再訪すると、丘の上から見渡す風景は変わっていない。でも、高齢化と過疎化は止まらず、人口は6千人を切った。町を出て函館のラ・サール高校へ入った70年は、1万3千人を超えていた。ただ、人口は半減したが、町長を務めた父・金保さんが主導して始めたブドウの栽培とワインづくりは、国内のワイン人気も追い風となって、堅調だ。

 60年代初めにできた町営のブドウ・ブドウ酒の研究所に醸造工場やブドウ畑があり、74年にできた建物は欧州の古城の趣を持つことから「ワイン城」と呼ばれた。大学生のときにできた建物は約20年前に改築され、売店やテラスがある4階からの風景は、自宅から通学するときに観たあの「丘の上から見下ろす風景」と同じだ。

はるか地平線を望む故郷の風景がくれた前向きな気持ち

 はるか遠く地平線を望むことができるところは、広大な北海道でもそうはない。この風景が「故郷のために、北海道の人たちのために、何かやりたい」との思いと、「何があっても、何とかなる」という前向きの気持ちをくれて、ビジネスパーソンとしての『源流』が生まれた。

 拓銀は、バブル期の甘い審査による巨額の融資が焦げ付き、97年秋に経営破綻を迎えた。営業企画部次長のときで、前回で触れたように83人いた部下たちの行き先の確保に、全力を傾ける。そのときも、何度かこの風景を心に浮かべ「何とかなる」と、自らに言い聞かせた。

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フランチャイズから直営店主義に変えて生まれた一体経営