ロサンゼルス市ヴァンナイズ地区のスタジオをテーマにしたドキュメンタリー・フィルム『サウンド・シティ』は、心から音楽を愛し、トレンドに流されることなく、自分だけの音を創造するための努力をつづけてきた人たちの想いやこだわりが伝わってくる作品だ。2013年に公開され、日本ではWOWOWでも放送されたこの映画を監督・製作したのは、フー・ファイターズのデイヴ・グロール。ニルヴァーナが、ロックの歴史を変えたといっても過言ではない名盤『ネヴァーマインド』を録音したときサウンド・シティを知り、深く愛するようになった彼は、2011年に同スタジオが一般営業を終えた時点でその心臓部でもあったニーヴのコンソールを買い取ってパーソナル・スタジオに移し、新たな生命を与えている。
つまり、グロール自身の強いこだわりをそのまま映像化した作品でもあったわけだが、その『サウンド・シティ』に重要な証言者の一人として登場していたのが、フリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスだった。
1948年アリゾナ州で生まれたニックスは、サンフランシスコの高校に通っていた時期に知りあったリンズィー・バッキンガムと、サンノゼ大学に通いながらさまざまな形で音楽活動をつづけた。大きな成功を手にすることはなかったが、サウンド・シティを拠点にしていたプロデューサー、キース・オルセンに認められ、1973年にはデュオ・アルバム『バッキンガム・ニックス』をリリースしてもいる。
バッキンガムとニックスのロマンティックな関係も示唆する美しいジャケットが印象的なこのアルバムは、しかし、一般的な意味でのヒットには至らなかった。二人はハウスキーピングなどの仕事で生計を立てながら、デモ・テープの録音をつづけていたそうだが、ある日、大きな転機が訪れる。たまたまサウンド・シティを訪れたフリートウッド・マックの中心人物、ミック・フリートウッドが、そこで『バッキンガム・ニックス』収録の《フローズン・ラヴ》を聞かされ、その特徴的なギターから、なにか閃くものを感じたというのだ。
フリートウッド・マックは、60年代半ばのロンドンで、純粋にブルースを追求するバンドとして結成されている。しかし、クラプトンとも肩を並べる存在だったピーター・グリーン、スライド・ギターの名手ジェレミー・スペンサーなど結成当時のメンバーが次々と脱退していくなか、徐々に音楽性を変化させていき、活動拠点もアメリカ西海岸に移っていた。71年から74年にかけてはアメリカ人アーティスト、ボブ・ウェルチがフロントに立っているのだが、その彼も脱退。フリートウッドはちょうどそのころ、スタジオだけでなく、新しいメンバーも探している時期にあったのだ。
結局、バッキンガムと一緒にニックスも参加することになり、1975年にサウンド・シティで録音された『フリートウッド・マック』によって、バンドは新たな一歩を踏み出している。《リアノン》を書いたニックスは、その妖精的なイメージのルックスと声によって、ロック界の新たなセックス・シンボルとなり、バンドの評価も一気に高まった。77年発表の新生マック第二弾『ルーモアズ』からはつぎつぎとシングル・ヒットが生まれ、アルバム自体も短期間で1000万枚を超えるセールスを記録している。もうこのころには、若い音楽ファンのほとんどは、フリートウッド・マックはカリフォルニアのバンドだと思っていたのではないだろうか。
70年代後半のこの時期、マックやイーグルス、ピーター・フランプトン、ビージーズなどが、つぎつぎといわゆるメガ・ヒット・アルバムを世に送り出している。アーティストは純粋に自分たちらしい音楽の創造を追求していただけなのかもしれないが、明らかに、ロックをめぐる状況は大きく変化しようとしていた。パンクの台頭は、その反動でもあったのだろう。制作現場が急速にデジタル化され、ヴィジュアル偏重の時代が訪れるのは、そのわずか数年後のことだ。