中日は今季2軍監督を務めた井上一樹新監督が就任し、再スタートを切ることになった。
【写真】井上監督が選手会長だった2007年、53年ぶりの日本一となり宙に舞ったのは
「ミスタードラゴンズ」として絶大な人気を誇った立浪和義前監督にチーム再建が託されたのが3年前の22年。だが、球団史上初の3年連続最下位と低迷して、今季限りで退任した。
中日を取材するスポーツ紙記者が、監督人事の舞台裏を明かす。
「井上監督は球団からオファーを受けて相当迷ったようです。立浪前監督を慕っていましたし、力になれなかったことに責任を感じていた。立浪政権にいた多くのコーチ陣が退団したので、自分も身を引くべきかと考えたのでしょう。ただ、今の中日に有能な人材を外部招聘できるかというと厳しい。1、2軍の選手たちを熟知している井上監督が適任だと思います」
井上監督は中日で1軍打撃コーチ、2軍監督を歴任し、阪神でも21年から1軍ヘッドコーチを2年間務めている。当時阪神を取材していたスポーツ紙デスクが振り返る。
「選手に寄り添うだけでなく、ときには厳しい声を掛けて奮起させ、個々の選手の性格を考えてコミュニケーションを取っていました。自分の考えを一方的に話すのではなく、選手の思いを聞きながら解決策を考えていく。当時の矢野燿大監督やコーチのパイプ役になる一方で、選手たちから慕われていましたね」
落合監督の下で染み込んだ「勝者の哲学」
高卒1年目で新人王を獲得するなどエリート街道を歩んできた立浪前監督とは対照的に、井上監督は苦労人だ。鹿児島商からドラフト2位で中日に投手として入団したが、制球難で芽が出ずにプロ4年目で野手に転向。タイトルを獲得するような活躍はなかったが、2ケタ本塁打を5度マークするなど勝負強い打撃に定評があり、落合博満元監督の黄金時代を支えた選手の一人だった。
当時チームメートだった中日OBは振り返る。
「当時の中日は『大人の集団』という雰囲気で緊張感があった。主力選手に後輩がなかなか話しかけられない雰囲気だったけど、一樹さんは違いましたね。どんどん話しかけてくれるし、こちらからも話しかけられる。真面目で熱い人なんですけど、ちょっと抜けている部分もあって(笑)。ただ練習量は凄かった。何時間もマシン打撃で振り込んでいた。ここまで練習しないと1軍に定着できないんだなと肌で感じました。裏表がない性格なので監督になったら、選手たちはやりやすいと思いますよ。楽しさの中に厳しさがある。落合元監督の下でプレーして『勝者の哲学』が染み込んでいますし、どんなチームを作るか気になります」