孝文王が即位三日にして死去し、華陽夫人は太后になったが、秦王政が即位しても太后であり続け、始皇一七年に亡くなった。秦王政の母も太后になったので、二人の太后がいたことになる。
昌平君は、華陽太后が死去した後の始皇二一年、楚の都の郢(えい)に帰った。楚では幽王(ゆうおう)の死後、弟の哀王(あいおう)が即位したが、すぐに庶兄の負芻に殺され、楚の王室は混乱していた。そのことも気になりながら、華陽太后という支えが無くなれば、秦に滞在する必要はなくなったのである。
始皇二三年、昌平君は、楚の将軍項燕に楚王に立てられて秦に抗戦した。王室の一族として、楚王に立てられたのである。やはり楚人の昌平君は、最期は楚のために秦と戦った。翌年、死去し、項燕は自殺した。
睡虎地秦簡の『編年記』に、昌平君が今(始皇)二一年に楚に帰国したことが記されている。『編年記』は、秦が楚を占領支配した南郡の地方官吏の年代記である。
わざわざ秦を離れて楚に帰国したことを記し、秦の地方官吏が警戒するほどの重要な人物であったのであろう。秦の内政を熟知した楚人であった。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、魏・楚・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や蒙武(もうぶ)、龐煖(ほうけん)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》