その福原が本誌で書いた最初の写真論のタイトルは「写真道」で、写真に関するどんな名論卓説も、1枚のベスト判(4×6.5センチ)フィルムの密着印画と等しいとした。その印画とは光と影が刻々と織りなしてゆく風景の印象をつかまえたものである。「影のあるところには必ず光があり、この光と影が写真の生命である事は、不変の真理であると、かう言ひ切る事が出来る。この生命が吾々写真家の掌中に握られているのだ。何處迄もこの生命を育まなければならない」

 すなわち写真とははそれぞれが短い詩であり、ことに「俳句を写真で読む」ようなものだと説く。俳句を写真と重ね合わせて論じることは今日でもよく試みられる。だが福原のユニークさは「俳句という境地は日本のみが徹し得る独自なもの」と位置づけたことであり、やがて写真を日本の国民芸術に至らしめるという構想を得るのである。
 興味深いのは、この俳句写真論を時代遅れにしてしまう写真論が、翌年5月号に登場したことだ。ドイツに渡りダダイズムや構成主義などの新興芸術を吸収した村山知義による「写真の新しい機能」である。村山はここで芸術写真が「実用性」を無視している点を批判したが、それは福原のことを暗示している。「たゞ単に、ソフトフォーカスで現実をごまかしたものや、地平線を普通より高くとって之に影を落としたものや、そんなたぐいの芸術写真はどうも私の考へでは大変にくだらないものとしか思えない。絵画でたとへてみればこれは印象派である」

 村山はそれに代わってマン・レイのレイヨグラムをとりあげたうえで、最も可能性があるのはソ連の「構成派」のあり方だと述べる。つまり写真の精密な描写力を造形的な構図のなかで発揮させ、それをグラフィックデザインの要素として活用する。それによって写真の「現実性を更に更に『厖大な現実性』にまで高める」ことができるとしたのだった。

 第1次大戦後の欧州では伝統的な価値観や共同体が解体し、新しい思想や前衛芸術が勃興していた。それを現地で知った村山のような美術家は、1920年代前半から新興美術運動と呼ばれるさまざまな芸術運動を展開していた。そんな彼らに、福原のような富裕な芸術写真家たちの生き方が、微温的なものに見えたのは当然だった。

 だが批判を受けても福原は彼自身の写真芸術を追求した。その後『西湖風景』(31年)、『松江風景』(35年)、『布哇(ハワイ)風景』(37年、いずれも日本写真会)などの風景写真集を相次いで発表してその境地を示した。ことに『松江風景』はその到達した境地を示すものと評されている。

 福原は、もちろん時代に無知だったわけではない。趣味人としても資生堂の経営者としても常に芸術と社会との接点に立ち続けており、美術評論家の光田由里が指摘するように「次々に生まれる視覚芸術の新しい様式も、知らないどころではなかった」(『写真、「芸術」との界面に』青弓社)のだ。その只中にあっても、変わらぬ写真芸術を追い求める姿勢こそが彼の「写真道」だったのである。

生活と芸術の両立へ

 本誌では、その後も美術関係者によって、欧州の新しい写真論とその実作が続けて紹介された。順を追うと朝日新聞社の美術記者である仲田勝之助の「写真は芸術たり得るか」と未来派の影響を受けた前衛芸術家・神原泰の「健康な芸術写真に向つて」(以上26年7月号)、勝之助の弟でドイツに留学してバウハウスを知った美術評論家・仲田定之助の「写真芸術の新傾向―モホリー・ナギの近著から」(同10月号)、同じく仲田の「マン・レイの抽象写真」(同11月号)、村山の「ブルギエールの芸術写真」(同12月号)など。また27年3月号では勝之助が、日本写真会の第3回展を「自然はあるが、生活がない」とし、会員が「リーダー(福原)にならひ過ぎる」点を批判した。「生活」といえば、確かに昭和初年の大衆の暮らしは苦しかったのだ。第1次大戦後の恐慌と震災の影響が続き、業績の悪化した企業は労働者を大量に解雇して失業者が巷ちまたにあふれていた。無産政党が結党されて労働運動も激しさを増している。帝都復興のために対外債務は急増し、27(昭和2)年には金融恐慌が起こって経済的混乱はピークに達した。

 当然、写真趣味にもしわ寄せが及び、輸入に頼っていた高級な写真機材や感材に、高い関税がかけられている。全日本写真連盟の結成や本誌創刊にあたっては、関税の引き下げを求めることが目的のひとつに挙げられていた。

 こうした状況を背景に、成沢玲川も写真の実用と芸術性の融合を求めていた。彼は26年6月号の巻頭言「写壇漫筆」で、欧米ではアマチュア写真家が新聞社や通信社に写真を売って利益を得るケースがあることを紹介。日本のアマチュアも道楽だけでなくなれば、写真の専門分野はさらに広がるとして「写真を単に有産、有閑階級の独占に終わらしたくない」と述べた。これには反論があったものの、写真の記録性を生かして芸術と実用性を両立させる新しい表現への期待は薄れなかった。

 そんな新しい写真の旗手となるのは、洋行帰りの中山岩太だった。18(大正7)年に東京美術学校臨時写真科を卒業した中山は、渡米してニューヨークで写真館を経営するなど8年を過ごし、その後パリに1年余り滞在して27年9月に帰国したのである。

 本誌で同年1月号に作品が初めて掲載され、12月号の「新帰朝者土産話」に登場。パリでマン・レイ、リシツキー、バウハウスなどの新しい芸術傾向に触れて写真の研究を重ね、その結果「写真を端的に純写真で出す」ことを心がけるようになったと語っている。

 さらに続けて翌28年1月号に「純芸術写真」を寄稿。絵画と写真の表現性を同一視することをやめ、撮影機材や材料の特長を考えることから純芸術写真が始まると説いた。この稿には定規や鍵が平面的に構成された「創作第一」「創作第二」と題された2点の作品が添えられている。それは本誌ではじめて、日本人の作家によって示された新しい写真表現の実作だった。

 本誌のような総合誌的な写真雑誌の宿命は、このように新旧の論と実作がときに同時に示され、葛藤が露出することだ。29年6月号での第3回国際写真サロンに対する合評会がまさにそれであった。この会の主席者は11人、うち朝倉文夫、五十嵐與七、岡本一平、野口米次郎、村山知義、脇本楽之軒の6人が美術家や批評家だった。彼らはそろって絵画的な写真表現に批判的で、脇本などはブロムオイルの作品を「邪道に踏み込んだもの」とまで呼んでいる。それに対して写真関係者らは全くの守勢に立たされた。
 一方で、この号の月例欄には「月例懸賞応募者へ」という小さな呼びかけが掲載されている。最近新人の輩出が少ないため、初心者でも奮って応募して欲しいとの内容で、創刊から4年を経て、芸術写真の停滞が顕著になっていたことを示すものだった。

 写真の実用と芸術性を両立させ、新たな才能を発掘する新しい回路が求められていた。そこで成沢は翌年から始まる「広告写真懸賞」にその打開を求め、じっさいこれを機に、誌面は再び活気を帯びてゆく。