前回のコラムで無名時代の交流を紹介したジャクソン・ブラウンとJ.D.サウザー、グレン・フライは、いずれも、1972年にアサイラムというレコード会社から最初のアルバムを発表している(フライは、いうまでもなく、「イーグルスの一員として」ということだ)。
避難所や聖域、保護施設などを意味するアサイラムというなんとも象徴的な名前のレコード会社は、70年代初頭、デイヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツによって設立された。二人は、ウィリアム・モリス・エージェントのスタッフとして出会ったあと、ゲフィンがローラ・ニーロやCSN、ロバーツがバッファロー・スプリングフィールドやジョニ・ミッチェル、独立後のニール・ヤングなどのマネージメントで高い評価を確立し、当日はまだ無名の存在だったジャクソン・ブラウンを世に送り出すことを目標に、再合流している。なんでも、アトランティック・レコードの創始者アーメット・アーティガンに売り込みに行くと、「そんなにいいアーティストなら自分でレコード会社をつくって稼いだらいい」といわれ、もちろん彼の援助を受ける形で、立ち上げたのだそうだ。
経緯や思惑はともかく、アサイラムというのは、じつにいい響きの言葉であり、まだ若く、上質な音楽を多くの人に届けたいと純粋に考えていた彼らの想いをきちんと表している。オリジナルのロゴには、出口とも、入り口とも、いろいろな受け止め方のできる木の扉が描かれていた。
アサイラムからの最初の作品は、カリフォルニア出身のシンガー・ソングライター、ジュディ・シルのファースト・アルバムで1971年秋にリリースされている(グレアム・ナッシュが1曲のみだが、プロデュースを担当した)。隠れた名盤と呼ばれることの多いこのアルバムは、当然のことながら、商業的な成功にはほど遠かったが、翌年にはイーグルスが《テイク・イット・イージー》で大きくブレイク。その作者だったジャクソン・ブラウン、彼らの親しい音楽仲間でもあるJ.D.サウザーなど新しいタイプのシンガー・ソングライターたちを擁するレーベルとして、アサイラムは一躍注目の存在となっていった。
彼らが相次いでデビューした72年には、アサイラムはワーナー・グループの傘下となり、エレクトラ/アサイラムと名を変えているのだが、その後もトム・ウェイツやウォーレン・ズィヴォンといった個性的なアーティストを送り出し、また、すでに大きな存在となっていたリンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルも迎え入れるなど、70年代のアメリカ音楽に揺るぎない地位を築き上げていった。73年には、ボブ・ディランもアサイラムに移り、ザ・バンドと録音した『プラネット・ウェイヴズ』と、彼らとのツアーを記録した『ビフォー・ザ・フラッド』を残している(現在の発売元はSONY)。
もちろん、美しい話ばかりではない。デイヴィッド・ゲフィンは1980年に設立したゲフィン・レコードで巨大な成功を収めるのだが、この時期に彼は、ニール・ヤングやドン・ヘンリーと作品の方向性や契約条件に関して衝突を繰り返している。その後、映画の世界にも進出した彼はスピルバーグらとドリームワークスを立ち上げ、ここでも大きな成功を収めた。
一方のロバーツは、今も変わることなくマネージメント・サイドからニール・ヤングの創作活動を支えつづけている。たまたま何度か話す機会を得ているのだが、まさに「これこそマネージャー」というタイプの人だった。彼と出会ったから、ニールはニールとして歩みつづけることができた。そんなふうにも感じたものだ。 [次回4/20(水)更新予定]