三ヶ月という証言からうかがえるのは、魏が三ヶ月も籠城して王賁軍を防いだともとれるし、もう一つ重要な事実は、その時期が夏の終わりから秋にかけての三ヶ月であっただろうということである。
日常の鴻溝は静かに流れる運河であり、水攻めには使えない。黄河の増水は、夏の終わりから始まる。秋の季節の三ヶ月に黄河の大量の水を大梁城に流し、水位を上昇させて攻めたのである。
王賁軍は戦わずして自然の力に任せた。城門を閉じれば、多少の増水には耐えられるが、版築(土を幾層にも突き固める工法)の城壁の耐久の限度は三ヶ月であったのだろう。
冬になれば黄河の水量は激減し、春も渇水期である。秋だけに通用する戦法である。呂不韋が残した『呂氏春秋』でも秋が戦争の季節であり、冬は死の季節であると説いている。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、趙・楚・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。信(しん)や龐煖(ほうけん)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》