秦の兵馬俑 (写真:Robert Harding/アフロ)
この記事の写真をすべて見る

 映画『キングダム大将軍の帰還』やドラマ『始皇帝 天下統一』など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を博している。いずれも秦の統一戦争の過程を描いているが、六国の一つ「魏」を滅ぼした将軍は誰だったのだろうか。

【写真】映画で「王騎」を演じた筋骨隆々の人気俳優はこちら

 映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、「秦は合従を避けるため、他国の支援を封じていた」と指摘する。

 新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。

【『キングダム』よりも先の史実に触れています】

*  *  *

 始皇二二(前二二五)年時点での魏の領域は、魏の都である大梁周辺が残されるだけであった。合従の援軍を避けながら、一国を集中的に攻撃するのが秦の作戦である。

 当時の状況下で、燕が魏を支援することはあり得なかった。始皇二〇(前二二七)年の荊軻(けいか)による秦王暗殺未遂事件の結果、王翦(おうせん)と辛勝(しんしょう)の二将軍は燕を攻め、翌年に燕都の薊を占領していた。燕王喜(き)は遼東に逃亡し、魏を支援することは不可能であった。

 そして王翦の子の王賁(おうほん)将軍には南の楚を攻撃させ、楚の支援を封じたうえで、王賁は楚から戻る途中で魏の大梁城を水攻めする作戦に出た。

 現在の開封(かいほう)の地にあたる大梁は、黄河の川底よりも低い位置に町があり、黄河の洪水に悩まされることが多い。そこで王賁は黄河から水を引き、城を攻めた。

 秦始皇本紀と魏世家には大梁を水攻めして、魏王の仮(か)を捕虜にして魏を滅ぼしたことしか記されていないが、魏世家の末尾の論賛には、司馬遷が大梁を訪れたときに、廃墟のなかに住む人からつぎのような証言を得たことが記されている。

「秦が梁(魏)を破ったときに、河溝を引いて大梁に灌(そそ)ぎ、三ヶ月して城は崩壊した。王は(国を存続させて)降伏を願ったが、ついに魏を滅ぼした」と。

 河溝とは、黄河から東南に引いた人工的な運河であり、鴻溝(こうこう)と呼ばれている。春秋時代に引かれた鴻溝は、宋・鄭・陳・蔡・曹・衛の小国の地を結ぶ水運で活用され、鴻溝の黄河からの取り入れ口は、秦の管轄にあった。

 王賁はこれを軍事に活用した。その攻防はどうだったのか?

次のページ
王賁軍と魏の「三カ月の攻防」