イラスト:サヲリブラウン
この記事の写真をすべて見る

 作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。

【写真】この記事の写真をもっと見る

 *  *  *

 先日、伊豆へ一泊旅行に行きました。人生初のオーベルジュを体験するために!

 オーベルジュとは、宿泊施設を持つ郊外にあるレストランのこと。美味しいごはんが売りの宿泊施設ではなく、泊まれるレストランです。発祥の地はフランスで、起源は中世と言われています。調べてみると、個人が車や列車で移動することが一般的になった1930年代に現在のスタイルが定着したとありました。旅館の起源が奈良時代だそうですから、比較するとまだ歴史が浅い。帰る手段がないから泊まるのが旅館ならば、食事のためにわざわざ行くのがオーベルジュと理解しました。

 とは言いつつ、実際に訪れるまで私は「宿泊施設を持つ郊外のレストラン」と「美味しいごはんが売りの宿泊施設」の違いがわかっていなかった。フランス料理付きの素敵なホテル、くらいの認識でした。

 しかし、たいていのことは百聞は一見に如かずと相場が決まっています。今回もそうでした。兎にも角にも、主役は食。その土地の食材を使い振る舞われる料理は、食を通して五感に訴えかける刺激が桁違い。レストランの雰囲気、一皿ごとの視覚的な美、食感のバリエーション、提供される温度、五味のすべてを過不足なく堪能できる味付けなど、一食を堪能するための設計図が綿密で凄みを感じさせるほど。「浴衣ないのかー浴衣で施設内を移動できないのは残念」なんて思っていた自分をキツめに叱りたくなりました。そういう場所ではない。居住地とは異なる場所の文化、歴史、景色、人に心を動かされるように、食に心を動かされるのがオーベルジュ。

イラスト:サヲリブラウン

 都内で外食する際、私はこういったレストランを極力避けます。ドレスコードもあるし、作法に不慣れで緊張してしまうから。忘れがたいほどの食体験ができることはわかっていても、その前に越えなければならないハードルが高すぎると感じてしまう。

 しかしオーベルジュは、郊外に一泊するなら年に一度はこういった食体験をするのもアリかもしれないと思わせてくれました。インパクトが緊張や警戒を優に超えてきたからです。

 たいていのことは経験済みと高を括ることが多くなった人生後半、普段とは異なる方法で五感を刺激するのは、プロのトレーナーにストレッチをやってもらうのと同じく、闊達に生きていくのに有効な手段なのかもしれません。

AERA 2024年9月2日号

著者プロフィールを見る
ジェーン・スー

ジェーン・スー

(コラムニスト・ラジオパーソナリティ) 1973年東京生まれの日本人。 2021年に『生きるとか死ぬとか父親とか』が、テレビ東京系列で連続ドラマ化され話題に(主演:吉田羊・國村隼/脚本:井土紀州)。 2023年8月現在、毎日新聞やAERA、婦人公論などで数多くの連載を持つ。

ジェーン・スーの記事一覧はこちら