伊藤潤二の個展が世田谷文学館で4月から始まっていたことをうかつにも知らなかった。
伊藤潤二と言えばクラスメートに殺されても何度も再生する少女を描いた『富江』でデビューをし、「うずまき」という幾何学模様をモチーフにした連作短編『うずまき』などのホラー漫画の帝王として知っている人も多いだろう。
実際伊藤自身が自らの漫画の生まれいずるところを探った自伝『不気味の穴 恐怖が生まれ出るところ』でも、どのようにして「恐怖」を描くかというそのテクニックの開陳に重点がおかれている。
が、私がどうしても知りたかったのは、伊藤潤二は、なぜあれほど個性的で魅力的な女性を描けるのか、ということだった。
恐怖漫画における美女の役割
伊藤は、楳図かずおの『ミイラ先生』を例にあげながらこんなことを書いている。
〈ホラー漫画における美女は、トーストにおけるバター、シーチキンにおけるマヨネーズ、唐揚げにおける……とまあ、つまりは恐怖を引き立てるために欠かせない存在なのである〉
確かに、伊藤の漫画でも、「富江」の時代から主人公が美女の場合が多い。それによって恐怖がひきたつという面は確かにあるだろう。
が、私が伊藤の中で一番好きな作品では、その主客が逆転している。
トーストにおけるバターなどという引き立て役ではなく、さまざまな個性を持つ女性こそが主線のテーマになっており、それらの女性にはそれぞれのエロスがある。ぞっとするようなエロスや、耽美的なエロス、野獣のようなエロスなど、女性によって描き分けられている。
それが、伊藤版『人間失格』である。
このコラムが週刊朝日に連載されていた時代に、手塚治虫の漫画について息子の真が「シェイクスピアのように、さまざまな作家によって生まれ変わっていい」と話していたことを書いた。そうしてできたのが、鉄腕アトムの「地上最大のロボット」を原作にした浦沢直樹の「PLUTO」だった。
伊藤の『人間失格』も太宰治の同名小説を原作としながら、伊藤流の解釈で大胆にデフォルメし、ある意味原作を超える作品になっている。