読売テレビが制作する番組「情報ライブ ミヤネ屋」では水曜日のコメンテーターを務める。最新情報が次々に飛び込んでくることもある。瞬時に自分らしさのあるコメントが求められる仕事だ(写真=楠本涼)

「一番うれしかったのは、30代の主婦の女性から、自殺をしようと思ったけど思いとどまりました、というお手紙をいただいたことでした」

日本テレビへ異例の出向 キャスターに抜擢される

 放送を見た出版社から、出版企画書が山のように届いた。その中から、2人が選んだのは児童文学の編集者からの提案だった。大平が、子どもたちの立ち直りのために力になりたいと考えていたからだ。著書『だから、あなたも生きぬいて』は、250万部を超えるベストセラーになった。

 その放送から1年後、小西が32歳のとき、海外特派員としてロンドン赴任の話が来る。当時、海外特派員は既婚男性が行くのが通例。憧れていたものの、さすがにないだろうと諦めていたが、社内で女性初の特派員として声がかかったのだ。

 行ったものの最初は、大きなニュースには声がかからない。焦りを覚えながらも、自分にしかできない小さなニュースをコツコツと出し続けた。声がかかれば現場にいけるように常に態勢を整え、挑む姿勢を貫いた。2004年、イラク復興支援の現地取材に抜擢(ばってき)された。銃声の響く危険な地域で自衛隊が現地でどう役に立っているか、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て取材した。緊迫感と恐怖とともに、自分の目や耳で感じたことは、その後の仕事にも生きている。

「偉くなりたいとか、何かになりたいとか、そういう思いはまったくありませんでした。見聞を広め、多くの人に伝えたい。それだけでしたね」

 帰国後、意外な辞令がやってきた。日本テレビへの出向。キー局への出向は異例だった。政治部に配属されて2年目、夕方のニュース番組「ニュースプラス1」内の討論コーナーのキャスターに選ばれる。抜擢した当時の報道局プロデューサー、BS日本顧問の中山良夫は語る。

「当時、日本テレビには報道局が作るような討論番組がなかった。討論は予定調和ではつまらないんですよ。それだけにキャスターが重要になる。混乱してガチャガチャにしてくれる、でも乱れたりはしない。そんな人物を探していたんです」

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