「記録的な数の学生が集まりましたから、心配して様子を見に行ったこともありました。ところが、学生を騒がせることなく、関心を見事に引きつけて授業をコントロールされていた。なかなかできることではない。大したものだな、と思いました」
練習方法も分からず 手探りでラクロスを学ぶ
この日のテーマは、ニュースとは何か。使ったスライドは59枚。毎回の講義の後、数百枚に及ぶレポートすべてに目を通す。自らの過去の経験、50歳で通い始めた大学院での体系的な学び。まさに小西のすべてが詰まった、熱い講義なのだ。
兵庫県神戸市に生まれた。2歳のとき、家族で加古川に移り住む。父はのちに祖父の家業の米穀店を継いだ。祖父は死ぬ間際まで頼山陽の『日本外史』を手放さない勉強家だった。父からは「学び続けなさい。学びが人生の道を拓(ひら)くのだ」と言われて育った。父が学んだ県立校から、関西学院大学文学部へ。だが、華やかな私学のキャンパスで、打ち込めるものは見つけられなかった。
「テニスサークルに入ってみたんですが、私がいてもいなくてもこのサークルは進んでいくんだな、と思ったら、一気に興味をなくしてしまって」
何かに行き詰まったら、学びに行く。父の教えを思い出し、英語通訳の専門学校に通い始めた。ラクロスを知ったのは、大学2年生の5月。同じクラスだった男子学生が、棒の先に網がついたスティックを持って授業に現れる。「それ、なんなん?」と話しかけると、彼は関学でできたばかりのラクロス部に入部したと言う。日本ではまだ知られていなかったスポーツ。興味があるならマネージャーをやらないかと誘われたが、どうせなら選手としてやってみたいと思った。そんな談笑をしている最中、偶然にものちに顧問となる先生から、「女子のラクロス部を作らないか」と言われた。先生の研究室で、アメリカのラクロスの試合をビデオで見たときの衝撃を今も覚えている。
「華やかなタータンチェックの巻きスカートにポロシャツを着て、空中ホッケーみたいなことをしている姿が映って。可愛(かわい)らしいんですが、エネルギッシュなんです。これだ、と思いました」