大学2年で立ち上げたラクロス部は人生を変えた。当時の思い出の品々は今も大事に保管している。カナダ人コーチにもらった言葉「Hard Work Pays Off(頑張っただけ報われる)」は折々に感じた(写真:楠本涼)

 まずは手当たり次第に友人、知人に声をかけると少しずつ人が集まってくれた。競技用の道具は海外から取り寄せたが、ルールも練習方法も分からず手探り状態。練習場所は石がゴロゴロした河川敷しかなかった。メンバーを増やすために、競技の写真を貼った手書きのラクロス部の募集ビラを作成、ユニフォームを着て、関学だけでなくそれ以外の大学の前でも配った。海外からラクロスのルールブックも取り寄せた。説明はすべて英語だったが、小西が自ら内容を翻訳し、仲間に伝え、効果的な練習方法を探っていった。外国人のコーチが来ると聞くと滞在をサポートし、宿泊先として実家を提供した。本場の練習や試合を見てみたいとカナダにも渡った。ところがカナダ人との練習中、小西は初日に鼻の骨を折る大怪我(けが)をしてしまう。このとき、通訳も兼ねて同行していたのが、草創期のメンバーだった瀧川裕子(54)だ。

「大量の鼻血が出て、もうびっくりでしたが、次の日からは顔を覆うフェイスガードをして練習に出ていました。うまい人とプレーできる、せっかくの機会。時間がもったいない、と。ラクロスに対しての情熱は、本当に強かったです」

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 練習、戦術の研究、合宿、新たな部員の勧誘、他大学の指導、スポンサー探し……。スケジュール帳は真っ黒になった。小西はいう。

「今日、何かやれば、違う明日が来る。なるほど、そうなのか、と実感しました」

 部員は3年後には100名を超える規模になった。後に小西は日本代表選手にも選ばれた。

 就職先としてテレビ局を選んだのは、その影響力を実感したからだ。大学4年のとき、日本テレビの夜のニュース番組が、ラクロス普及の活動について取り上げてくれた。後にラクロスをやってみたいという声が、各地で広がったことを知った。

「マイナーなスポーツもそうですが、日が当たらないけれど一生懸命頑張っている人がいる。それをテレビの力で応援できるんじゃないか、と」

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