いつからかネットやSNSを覗くと、コンサートは「観に行く」「鑑賞する」ものではなく、「参加する」、さらには「参戦する」ものになってしまっています。

  町内会のバザーや、地元の秋祭りとは違い、本来「見せる」「聴かせる」という意味合いであるショーやコンサートが、あまりにも「参加型」のものと捉えられていくことには、一抹の不安も覚えます。

 単なるアレルギーかもしれませんが、私はとにかく、この「コンサートに参加する・参戦する」という表現が苦手です。少なくとも自分が作って見せているステージは、観客にそのような意識を抱かせず、ちゃんと「鑑賞物・見世物」として消費してもらえるように努めたいと思う次第です。
 

 ただ、ある程度の「決め事」に乗っかって、「参加する」コンサートの楽しさも知っています。「夏の扉」では、「聖子ー!」とコールする悦びがありますし、「BLIZZARD」で両手を左右に振る客席の一体感は、苗場ユーミン鑑賞の醍醐味です。

 そのような「決め事」が多い方が楽に鑑賞できるというオーディエンス側の気持ちも理解しています。

 しかし、本当にそれで良いのか? このままでは、観客を圧倒する演者が減り、客席に媚びへつらい、同時に客の質や自覚も落ちていく一方な気がしてならない私は時代遅れでしょうか?

 近頃は「推し活」という新たな芸能の消費スタイルも流行っています。「推し活者」たちにとっては、自分の「推し」を応援することは、すなわち「参戦」なのかもしれません。いわゆる「顧客」「贔屓」「ファン」といった人たちが、総じて「サポーター」となっているところが今風なのだと思われます。

 スポーツも、かつては「観戦」だったのが、今や「参戦」です。サッカーで言うところの「サポーターは12人目の選手です」的な精神論。どうやらこれが、個人的なむず痒さの根源な気がします。
 

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