米子市には、母がいる。ちょうど桜の花が咲いたときに再訪し、花見をさせてあげることができた。1961年4月に生まれ、父母は共働きで、子どものころ日中は弟と2人。でも、弟と7歳も違うので、遊び相手は級友たちだった。小学校6年生のときに彼らとつくったのが野球チームで、市の大会で、いきなり優勝した。
『源流Again』では、そのチームの大半が進み、野球部に集まった市立後藤ケ丘中学校に寄った。さらに高校2年生の夏の大会で戦った旧湊山球場へ。いまは公園になっていて、高台から見下ろすと、様々なことが目に浮かぶ。2年生のときはのちにプロ野球選手となったエースがいたが、依存し過ぎたためか、準決勝で敗れた。でも、みんなで練習法を考え、自主性と協調性のバランスが取れた3年生のチームは、決勝へ進んだ。組織の在り方を学んだ経験だ。
米子再訪の翌日、初任地の広島支店へもいった。基礎を大切にするという『源流』からの流れが、勢いを増した地だ。
経済の先行きを学び損した客を再び訪ね取引再開を実現する
野球でダッシュや筋肉の鍛錬など、基礎的な練習を積み重ねた。証券取引でも同様に、国債の先物取引で大損した客に出入り禁止となった後、債券先物の基礎知識を徹底的に勉強し、金利動向を左右するマクロ経済の動きにも視点を築く。
そんななかで、ふと思う。
「この客は、もう証券取引をやらないだろう。でも、もしやってもらえるとしたら、相手は自分しかいないのではないか」
なぜそう思ったのか、分からない。でも、経済の動きを学んで今度こそ金利が下がると確信し、その客に会いにいく。何度目かに会ってくれて、相手は取引を再開して利益を出し、前回の損をかなり取り戻す。広島市へくれば、これも思い出す。
3年生の県大会の決勝で負けた場面も、よく覚えている。悔しくて泣いたが、チームのあるべき形を知った。「何かが足りなかったから、甲子園へいくことができなかった。今後は、何かが足りないということはないようにしよう」と、胸に刻む。入社後、うまくいかないことも多々あった。そんなとき、この教訓が活きる。「うまくいかなくても、そこで頑張れば、必ず道は開ける」との思いが、『源流』から流れ続けていた。
2017年4月に野村証券の社長になり、2021年7月に日本証券業協会の会長に就く。いろいろ無茶もあった証券界で「生涯キャプテン」とも言える正攻法のトップがいれば、業界の文化も変わっていくのだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年6月3日号