米子東高校の野球部は練習がきついと聞き、入るか迷っていたが、中学校の先輩たちに強引に入れられた。確かに練習は厳しいが多くのことを得た(写真:狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年6月3日号では、前号に引き続き日本証券業協会・森田敏夫会長が登場し、「源流」である母校・米子東高校などを訪れた。

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 1985年9月、米ニューヨークからの速報に、世界の金融・証券界は驚愕した。「強いドル」を誇ってきた米国が、輸出競争力の低下による貿易赤字の膨張に耐え切れなくなり、英仏独そして日本の蔵相をひそかにニューヨークのプラザホテルへ呼んで、協調してドル安にしよう、と合意した。近代の経済史に残る「プラザ合意」だ。

 5カ国は、外国為替市場でドルを売った。英仏独日は、代わりに自国通貨を買う。さらにドル安・自国通貨高を促すため、市場の金利を高く誘導した。金利が上がれば、流通している債券は相対的に利回りが不利になるので、売られて値が下がる。逆に金利が下がれば、債券の市場価格は上がる。

 速報に、衝撃を受けた。この年の春に同志社大学商学部を卒業して野村証券へ入社、広島支店へ配属されていた。日本経済の低調さから、国内の金利は低下傾向にあった。本社も支店の先輩も「当分、金利は下がる」とみた。だから「国債の先物は買いだ」と思い、赴任後に取引を始めてくれた客に案内する。その直後に、想定外の「プラザ合意」があった。客は大損をして、出入り禁止となる。

 立て直す支えとなったのが、鳥取県立米子東高校の野球部での体験だ。野球は、基礎的な練習の浸透が大事。客に投資を案内するのも、経済や市場を動かす要因を、基礎からきちんと学んでおかなければいけない。二つの教訓が、重なった。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

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