「ゲージツ家のクマさん」こと篠原勝之の短篇集『骨風』は、「オレ」にまつわる8通りの死を描いている。
全作の語り部である「オレ」は、生まれてくるなりジフテリアを患って嗅覚と左の鼓膜を失い、室蘭で父から殴られつづけて育ち、17歳で逃げるように家出した過去をもつ。その後は東京で夢破れて困窮の日々を送り、結婚生活も破綻。その一方で鉄を素材にした造形芸術に入れこみ、現在は山梨県に設けたアトリエで創作活動を行っている。
そのまま篠原の人生と重なる「オレ」が、たとえば表題作「骨風」では、植物状態となった父と向きあう。〈殺すことより逃げることを選んで三十数年逃げ切ったはずだったのに、その父親が目の前で枯れ木のように横たわっている。過ぎ去っていった時間に目眩がした〉
そして「オレ」は、和解することなく逝った父の骨粉をモンゴルの草原にまく。「オレ」の人生に決定的な影響を与えた父との決着は、果たしてこれでついたのか。「オレ」は父を許したのか。そんなことは、おそらく、「オレ」だってわからないだろう。
それは父だけでなく、相手が先に逝った弟であれ、映画監督の若松孝二であれ、愛猫であれ、鹿であれ、認知症が進む母であれ、「オレ」はこちら側の世界に残る者としてそれぞれとの関係を淡々と描き、淡々と見送っている。懐が深いこの描写の力の根底には、もちろん作者の諦観がある。
〈人が死ぬことは 清掃事業だから 喜んでいいことだ〉
篠原が親方と慕った深沢七郎がよく口にしていたこの言葉と、孤独のうちに死んだ弟を納骨する際に認知症の母がつぶやいた、〈死んだらみんなおんなじだもの。みんな仏さんだから〉という死生観への篠原の共感が、ほのかに明るさすら感じる死の物語を生みだしたのだと私は思う。この本を読んでいる途中に母を亡くした私は、篠原の諦観にずいぶん救われて生きている。
※週刊朝日 2015年11月27日号