豊臣秀吉:本能寺の変から山崎の戦いまでの短い期間、光秀殿が権力を握っていたことを「三日天下」と称することがありますが、実際には11日ないし12日間の天下だったのですよね。まあ短いことには変わりはないですが…。
柴田勝家:ども、柴田勝家じゃ。一方、織田家で筆頭家臣だったワシは、遠く北陸地方を攻略していたため、山崎の戦いには参戦できなかったのだな。タイミングの悪いことに。
豊臣秀吉:主君である信長様が討たれ、その仇討ちという重要な局面で、勝家殿は何もできなかったわけですよね…。これは手痛いビハインドですよね? 私としてはしめしめといったところですが。
そんな山崎の戦いを終え、信長様の亡き後の事態の収拾を図るため、織田家臣団のメンバーで開催されたのが「清洲会議」ですな。
丹羽長秀(にわながひで):勝家殿、秀吉殿に加えて、池田恒興(いけだつねおき)殿、そして私、丹羽長秀が参加した会議ですね。滝川一益(たきがわかずます)殿は、直前に起きた神流川(かんながわ)の戦いにおいて北条氏に惨敗しており敗走。清洲会議には間に合いませんでした。こういうところでもいろんな巡り合わせがありますねえ…。
柴田勝家:ふむ。織田家の後継としては信長様の次男・信雄殿と三男・信孝殿が争ったわけだが、ワシは信孝殿を推しとった。
豊臣秀吉:私は、信雄殿や信孝殿が後を継ぐことに反対しました。私の推し案は、信長様の長男・信忠殿の遺児である三法師様を跡継ぎにすることだったのですよね。
柴田勝家:秀吉は山崎の戦いで光秀を討ったという功績もあり、家臣団のなかでも発言力が強まっていたのだな…。さらに4人が集まる場に秀吉が三法師様を抱きかかえて現れるというウルトラCを繰り出してきよった。そうして後継者は、秀吉が推す三法師様に決まったわけだな。
豊臣秀吉:清洲会議では後継者のほかにも、光秀殿の所領の分配なども議論されました。この会議以降は筆頭家臣だった勝家殿の影響力が低下し、私がナンバーワン家臣に躍り出たというわけです。作戦どおり!