とはいっても、作品に学校関係者に登場してもらうには、校長の許可がいる。山本さんは直談判した。
「ものすごくいい写真集を作って、私は保護者控室から1000万円プレーヤーになります。なので、許可してくれなかったら日本の損失です。絶対に許可すべきです、みたいなすごい演説をした」
後日談だが、山本さんは京都芸大を卒業したころ都内の小さなギャラリーで作品展を開催した。すると、医療的ケア児の母親でもある野田聖子衆院議員が訪れた。会場に置かれていた自費出版の写真集を購入し、医療的ケア児の支援を検討する「永田町子ども未来会議」のメンバーに配った。
給食の職員や校長にも
山本さんの作品づくりは絵コンテを描くことから始まる。1つのシーンでも、顔の写るもの、写らないものなど、数パターンを描き、撮影に協力してほしい先生に手紙を出した。
「先生たちの承諾を得て、撮影場所に集まってもらい、『もうちょっとこうしようか』と、調整して写した。先生たちは仕事の合間にきてもらうので、10分で撮る、みたいな感じでした」
給食の職員にも声をかけた。
「あの白いユニホームがすごく気になっていたんです。それで、廊下ですれ違ったときに、写真に写ってもらえませんか、とお願いした。最終的には給食部を通して撮影を依頼しました」
校長が写ったシーンもある。それは校長室から廊下にいる山本さんと瑞樹くんを写したときのものだ。
「学校は、気配を消せって言うけれど、先生がカメラで写真を撮れば、私の姿がばっちり写る。見えないふりをしているけれど、本当は見えているよね、っていうのをやりたくて、撮ったんです」
「自分の意思」があった
写真を撮り始めたころ、「自分の人生、いろいろうまくいかないな」と思っていた。
でも、写真を撮影して、1日の終わりにそれを見返すと、「自分が思っているほど、自分の人生は悪くないかも」と思った。
子どもが生まれてからは必要に迫られて何かをすることが多かった。でも、ファインダーを覗き、シャッターを切るときは「自分の意思」があることを実感した。
「自分がそこにいて、感じたこと、目にしたことを写真は見せてくれた。今よりも窮屈で苦しい時代だったけれど、こういうことは楽しかったな、よかったなとか。写真を見返すことが励みになった」
自分の意思で何かをすれば、それが残る。山本さんの場合、たまたま写真だった。
「小さなことでもいいから、みんなそれぞれ、何かをやるといいですね」
山本さんはしみじみと語った。
(アサヒカメラ・米倉昭仁)