『言語学的ラップの世界』川原 繁人,Mummy-D,晋平太,TKda黒ぶち,しあ 東京書籍
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 突然だが、皆さんは普段の生活の中で言語を意識して発言しているだろうか。おそらくほとんどの人が一度覚えてしまった言葉や文章などを意識することなく日常的に使っているだろう。言語や言葉の発し方について考えることを「言語学」というのだが、実はこの言語学がラップと結びついているという。

 川原繁人氏の著書『言語学的ラップの世界』(東京書籍)では、言語学とラップの共通点や歴史だけでなく、なぜ川原氏が言語学とラップを研究することになったのか、学生時代の青いヒストリー、ラッパーとの対談などをおもしろく紹介している。

「学生時代の私は、ただ日本語ラップが好きだった。好きなラップを聴いているうちに、いつしか自分で韻の仕組みを分析するようになっていった」(同書より)

 はじめは見返りなどを求めず、ただただ好奇心に導かれて研究していた川原氏。その研究がいつしか有名になり、自らの分析をプロのラッパーたちに披露する機会に恵まれ、メディアに出演する機会を多くもらうようになったのだ。

 話は川原氏の学生時代にさかのぼる。川原氏が中学生の頃にはすでに日本語ラップは流行りだしていた。このころは中学生のたしなみとして音楽を聴いていたものの、まさか将来自身が日本語ラップにハマるとは思ってもいなかったという。そんな川原氏だったが、大学4年生のときに友人がくれた1本のミックステープをきっかけに、日本語ラップもたしなむようになる。

 当時アメリカの大学院に進学を決意していた川原氏だが、その行動力はすさまじかった。東海岸の志望校をまわり、憧れの先生たちにアポを取って「突撃、私をあなたの大学院に入れてください作戦」を決行する。

 その結果、なんと名門であるマサチューセッツ大学からオファーをもらい、正式に出願することなく合格をもらったのである。本人も若さゆえの怖いもの知らずの行動力と語っているが、人生を切り開くにはこのぐらいの勢いがないといけないのかもしれない。

 さて、無事に東海岸のマサチューセッツ大学で過ごすことになった川原氏だが、順風満帆とはいかず、毎日がホームシックとの戦いだったという。

「そんな私を救ってくれたのが日本語ラップなのである。
日本語ラップを聴いているとき、私は日本語と戯れることができた」(同書より)

 「優秀な頭脳が集まる大学院の中で、自分の個性をどう発揮できるか」という悩みを抱えていた川原氏に答えを差し伸べてくれたのが日本語だった。ただの日本語ではなく日本語ラップならどうだろう。これなら他の誰にもできないことだ、と川原氏は考えた。そしてここから日本語ラップについて本格的な分析が始まっていく。

 当初は日本語ラップにおける韻は「母音」に基づいて定義されるものと思っていた川原氏だが、母音だけではなく子音もまったく同じ韻が少なからず存在するところに注目。例えば「待つぜ(matsuze)」と「バースデイ(baasudee)」の子音部分の「m」と「b」は両方とも発音するときに唇が閉じる。「つ」と「す」は専門用語で無声阻害音といい、「z」と「d」は有声阻害音(濁音)でペアになっている。

 正式に学会で発表するためにも統計学を学び、100曲分(実際はミスがあり98曲)の日本語ラップの韻における子音の組み合わされやすさを集計・分析。このように気づいたことがあれば統計にまとめることで、より深く日本語ラップを追及していった。同書では、さまざまな曲の歌詞を引用、統計の図解も載せて解説しているので、とても読み進めやすくなっている。

 言語学とラップの結びつきについて学んだあとは、もっとラップを楽しむためにラップについての歴史も紹介している。実はラップとはあくまでヒップホップのひとつの要素であり、DJ、MC、ブレイクダンス、グラフィティ・アートの4大要素から始まった。ヒップホップは珍しいことに生まれた日時と場所が明確に定義されており、1973年、ニューヨークのウエストブロンクスで生まれたと川原氏は説明している。

 ヒップホップやラップが派生した背景には、奴隷制度や差別、戦争が関わっており、同書でかなり詳しく解説している。歴史好きな人はかなり興味を引かれる内容になっているのではないだろうか。

 後半は川原氏憧れのラッパー達との対談が約59ページにわたって収録。それぞれのラッパーがなぜラップの道に進もうと思ったのか、現代のラップの形になるまでの紆余曲折など、かなり濃い対談がおこなわれている。言語学やラップについて知れることはもちろんだが、「生き方」――すなわち人生についても考えさせられる一冊になっていると私は感じた。