寛仁年間(一〇一七〜一〇二〇)─五十代前半

 当該年号は道長体制の完成期にあたる。「此世をば~」で知られる望月の歌が披露されたのが、寛仁二年(一〇一八)のことだった。「寛仁」は三条天皇にかわり即位した後一条天皇の年号だ。その後一条天皇に三女威子が入内、中宮となる。「望月の歌」についていえば、彰子(太皇太后〈一条天皇〉)、妍子(皇太后〈三条天皇〉)、そして威子と一家に三人の后が並び立つ栄誉を詠み込んだものだ。この歌を詠じた翌年の寛仁三年三月道長は出家する(法名行観)。道長自身の体調もさることながら、権勢の独占がもたらす運の傾きを思慮した結果だった。道長の第一線からの引退と、あたかも軌を一にするかのように、大きな出来事が道長の出家の年に勃発した。鎮西での異賊侵攻である。

 数年前から異国船の九州来着はあったものの、刀伊(女真)の来襲は、道長以下の朝堂貴族たちに衝撃を与えるものだった。ここでは異賊侵攻が、道長の晩年の時期に当たったことをおさえておきたい。出家以前、幼帝後一条の摂政の立場にあった道長は、その地位を嫡子頼通に譲り、道長以後の権力体制に道筋をつけた。

 対外的には、刀伊の入寇による海防問題はあったものの、道長体制は寛仁の段階で国内的には安定する。かつての抵抗勢力だった三条天皇はすでに寛仁元年の五月に没し、さらにその数か月後、敦明親王(母せい子)が東宮を辞することで、三条天皇系の血脈の皇位継承の芽が消えた。さらに、皇太子候補として一条天皇と定子との間に誕生した敦康親王も、寛仁二年に亡くなった。道長にとっての潜在的抵抗勢力が、政治の舞台から次々に退場していった。道長の寛仁段階は、まさにそうした時期ということができる。

 残る不安、それは来世という未知なる世界へのものだった。念願の出家に先立ち道長の信仰心は、すでに四十代半ば以降、顕著さを増しつつあった。寛弘八年(一〇一一)の金峯参詣と写経、同年の土御門第での阿弥陀仏供養、その後の寛仁元年(一〇一七)の浄妙寺詣、あるいは同三年の興福寺・春日社参詣と翌年の無量寿院落慶供養など、その信仰心を伝える事例は少なくない。

「寛仁」以降、「治安」「万寿」の二つの年号を体験した道長は、六十二歳で死去する。晩年の道長にとっての願望は、法成寺建立に向けて力を尽くすことだった。「治安」(一〇一二〜二三)の段階は、倫子所生の頼通・教通が左大臣・内大臣に、そして明子所生の頼宗・能信も権大納言へと就任、“御堂流”の血脈への布石がほどこされた。

 以上、道長を軸に約二十五年間にわたる足跡に「年号」を絡め、整理をほどこした。

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