紫式部日記絵巻(模本)、出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja)
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 康保三年(九六六)、藤原道長は兼家の五男として誕生した。十五歳で「従五位下」、二十二歳で左大臣源雅信の娘倫子と結婚、翌年には源高明の娘明子を第二夫人として迎えた。倫子との間に二男四女、明子との間には四男二女を設け、そのうち彰子はのちに一条天皇、妍子は三条天皇、そして威子は後一条天皇の后となった。関白の地位で全盛を迎えつつあった長兄道隆と次兄道兼が疫病にて没し、「内覧」(関白に準じる職掌で、天皇に奏上する文書に前もって目を通す地位)の宣旨が出されたのが、道長が三十代に差し掛かった頃だ。順調な一方で、中関白家との確執もあり、人間関係に悩む日々が続いていた。関幸彦氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)では、政治家としての最盛期を迎えた藤原道長の二十五年間が描かれている。同著から一部を抜粋、再編集し、紹介する。

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 不惑の年齢を迎えた道長にとって、四十代半ばに至るこの時期は、自身の権勢がより強固になった段階だ。紫式部の宮中への出仕は、この寛弘三年前後、式部三十六歳の頃とされる。そして道長にとっての最大の懸案ともいうべき一条天皇と彰子との間に待望の敦成親王(後一条天皇)が誕生したのもこの時期のことだ(寛弘五年〈一〇〇八〉)。ついで翌年に彰子は敦良親王(後朱雀天皇)を生み、外戚関係の確立に大きく前進がなされた。

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新旧勢力交替の潮目