長和年間(一〇一二〜一〇一六)─四十代後半

 この時期は、道長は政治的に最盛期を迎える。ただし、中関白家とは別にもう一つ“はばかる”べき案件も浮上した。当該の長和の年号は三条天皇のそれだったが、親王時代からこの天皇とはソリが合わなかったという。道長の長姉超子を母とした三条は、東宮時代が長く、即位は三十六歳だった。成人した天皇の即位は、摂関システムでの政権運営にとって、必ずしも歓迎されなかったのかもしれない。道長は妍子を三条天皇に入内させたが、三条には東宮時代の先妻せい子(せいは女へんに成)との間に、敦明親王がいた。長和元年(一〇一三)四月、妍子が入内(中宮)し、せい子立后(皇后)という二后冊立がなされた。翌年の長和二年、中宮妍子は皇女禎子内親王(陽明門院)を生む。

「心にも あらで憂世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」―と三条天皇自らが詠じた『百人一首』でもおなじみの歌は、その妍子に向けてのものとされる。ここには眼病を患った天皇自身の憂鬱が、「夜半の月」に託されて、詠み込まれていた。長和三年二月には内裏が焼失、天皇の眼の病も重篤化する。

 ちなみに三条天皇はその幼少期、道長の父兼家の愛を受け育ったという(『大鏡』〈兼家伝〉)。冷泉天皇の皇子で、兼家の娘超子を母としたこの天皇に、兼家も大いに期待したようだ。けれども皇統が円融に移り、ついで一条天皇の長期におよぶ在位のなかで、三条の即位は遅れることになった。一条天皇治世下にあって、それを補佐する道長との“二人三脚体制”は結果として、道長と三条天皇との間に微妙な関係を作り出した。

 眼病の件、さらに内裏焼失の件も重なり、三条天皇は東宮時代にもうけた敦明親王(母せい子)への後継を道長に託すかたちで、後一条天皇に譲位する。四十代後半の道長にとっても、三条天皇との関係はいささか心痛だったことは疑いない。妍子との間に皇子の誕生があれば、あるいは流れが変わったかもしれないが、そうはならなかった。当時、道長に靡かず対立していた二人の公卿、右大臣実資と中納言隆家の存在も、また気になるところだった。

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道長以後の権力体制に道筋