一条天皇は寛弘八年(一〇一一)六月に居貞親王(三条天皇)へと譲位、没する。天皇は寛和二年(九八六)年の即位以来、二十五年の長期にわたる在位だった。この間、道隆・道兼そして道長の「三道」が関白あるいは内覧という立場で、一条朝を支えた。道隆の娘定子、そして道長の娘彰子が入内、二后並立がなされ、当該天皇のもとでコアな王朝世界が演出された。一条天皇との間は、中関白家との因縁もあり、円滑を欠いた面もあったとされる。一条天皇が定子に想いを懸けていたことは、『枕草子』その他からも知られている。当然ながら、天皇との愛の育み方が関心となったはずで、当時にあっては、年齢的にも定子に分があったことは明らかだった。
したがって道長にとって、彰子が寛弘五年(一〇〇八)とその翌年に相ついで、二人の皇子を誕生させたことは、大きな展望となった。この寛弘期は次女の妍子が東宮居貞(三条天皇)の妃となり、これに先立ち、倫子との間に四女嬉子も誕生する。道長一家にとっては、嫡妻倫子との間にこの嬉子もふくめ、彰子(一条中宮)・妍子(三条中宮)・威子(後一条中宮)の四人の娘を得たことになる。
当該期、花山院が四十一歳で没(寛弘五年)。その父冷泉上皇も六十二歳の長命で亡くなった。ちなみにその花山院と女性問題でもめた伊周もまた、三十七歳で亡くなった(寛弘七年〈一〇一〇〉)。道長にとって寛弘年間はその周囲の新旧勢力交替の潮目となったことになる。