少年期から続く「正統派」(写真:本人提供)

 1954年3月、母の実家の和歌山市で生まれる。1人っ子だ。父は運輸省(現・国土交通省)の技術者で、広島で勤務していたので、すぐ母と広島へいく。その後、父の転勤で宮城県塩釜市へ移り、小学校に入る。続いて東京都杉並区、同東久留米市、岡山県玉野市、東京都世田谷区へと引っ越し、五つの小学校に通った。中学校も世田谷区で1年、埼玉県川口市で2年と、2校へいった。転校は計5回。そのたびに「今度、転校してきた國部です」と挨拶させられ、全く知らない人の目と合って、つらい思いがあった。

 でも、打開には、自分から飛び込んでいくしかない。ゼロからの融合に「度胸」がつき、大きな変化があっても動じなくなる。埼玉県立浦和高校から東大文科II類へ進み、経済学部の企業金融論のゼミで学んだ。

 76年4月に住友銀行(現・三井住友銀行)へ入行。東京・大手町の東京営業部で、最初の1年は主計係。振り返れば、このときの経験が、銀行員としてすべての出発点となった。主計係は膨大な量の伝票が最後に回ってくる部署で、勘定を合わせるのが仕事。手動の加算機で出入りの額を合わせたが合わず、計算し直してもまた違い、ベテラン女性に叱られた。そんなだから、仕事に気が乗らない。

 でも、やっているうちに、はっと思う。次々にくる伝票をみていると、銀行の取引の実情が分かる。同じ企業の名前が何度も出てくれば、「そうか、ここは大事なのだな」と頷く。やがて仕事に誇りと責任感を持ち始め、周囲の信頼も得ていく。それが、米国留学をもたらした。

テレビをつけっ放し 観るのでなく聴いて半年で英語に慣れた

 80年6月に米国へ留学。フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学の経営大学院ウォートン校へいき、学生寮へ入る。ただ、英語の力が足らず、最初の学期は先生の話を聞いても穴だらけ。寮の部屋で膨大な量のコピーや英書を読みながら、テレビをつけっ放しにして、観るのではなく聴いていた。

 半年後、英語が急に聴き取れるようになる。きっと、多くの留学生がそうなのだろう。外国人と話すことに抵抗感がなくなり、多様な価値観や異文化とも向き合えるとの「自信」が、5回の転校でついた「度胸」に重なり、フィラデルフィアで『源流』が生まれた。2年目はキャンパスに近いアパートへ移り、経営学修士号(MBA)を取って帰国した。

暮らしとモノ班 for promotion
大谷翔平選手の好感度の高さに企業もメロメロ!どんな企業と契約している?
次のページ