現代日本を舞台にリアルで派手な謀略サスペンスを書くのはむずかしい。ふつうに書けば、荒唐無稽なB級アクションになるか、ものすごく地味になるか、二つに一つ。曽根圭介の書き下ろし長編『工作名 カサンドラ』は、この困難な課題に正面から挑み、フレデリック・フォーサイスばりの技巧で鮮やかにクリアする。
題名のカサンドラは、ギリシャ神話に出てくるトロイの王女。アポロから予言の力を授かり、(トロイの木馬による)破滅を予言するが、だれも信じなかった。この逸話から、カサンドラは、災厄を予言する人、不吉な予言者を意味する。その名を冠した作戦とは、いったい何なのか?
カバーには狙撃用ライフルが描かれているから、まあだいたいの見当はつくわけですが、それをどう演出するかが腕の見せどころ。その技術に関して、曽根圭介は8年近く前のデビュー当時から太鼓判を捺されている。
ご承知のとおり、曽根圭介の初長編は、第53回江戸川乱歩賞を受賞した2007年の『沈底魚』。警視庁公安部外事二課の公安刑事(中国担当)をドライかつリアルに描くエスピオナージュで、刊行後たちまちベストセラーになった。うるさがたの選考委員からも、「職業として公安刑事を務める男たちの描写が秀逸である」(大沢在昌)、「現在の社会情勢をふまえて物語作りに取り組んだ挑戦の姿勢を高く評価したい」(真保裕一)などと評価され、曽根圭介は謀略サスペンスの新鋭として脚光を浴びたのである。
もっとも、著者は、乱歩賞の直前、「鼻」で第14回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。ホラー作家とミステリ作家のふたつの顔を持つことになり、両ジャンルの作品を交互に書き分けている。ミステリでは、トリッキーな警察小説やブラックな殺し屋小説で読者をうならせてきたものの、デビュー長編の壁が高すぎたのか、不思議と謀略ものからは遠ざかっていた。つまり、本書はほぼ八年ぶりに原点に回帰し、みごと『沈底魚』を超えた一作なのである。
物語は、二つのストーリーが交互に語られるかたちで進んでゆく。片方の主人公は、警視庁青梅西警察署刑事部強行犯係に勤務する50歳の刑事、荻大治郎巡査部長。二年前に妻を亡くし、生意気盛りの11歳の娘、友香を男手ひとつで育てている――というか、娘に生活の面倒をみてもらっている。この父娘の軽妙なやりとりが本書の彩りのひとつ。タイムセールの豆腐を買って麻婆丼をつくる娘に、刑事は安月給だからと父親が謝罪すると、友香はすかさず東京都のホームページからダウンロードした“警察官のモデル年収”をつきつけ、「これくらいはもらってるんじゃないの?」と迫ったり。
事件の発端は、奥多摩湖畔で衝突事故を起こした車のトランクから、全裸の男性が発見されたこと。男は両耳と鼻を削ぎ落とされ、意識不明。約2週間にわたり、爪を剥がされたり、煙草を押しつけられたりの暴行を受けていたものと推定される。車の持ち主を調べた結果、飯田橋に本社を置く警備会社〈リメス・セキュリティ〉で警護部部長をつとめる自衛官出身の須田孝平が浮上する。
もうひとりの主人公は、陸上自衛隊三十二普通科連隊の狙撃班に所属する今年30歳の自衛官、佐々岡啓志。射撃の腕は、三年連続で“優秀狙撃手”に選ばれたほどだが、ちょっとしたトラブルがもとで自衛隊を追われることに。妻の美樹は“突発性拡張型心筋症”で入院中とあって、必死に再就職先を探す啓志の前に、陸上自衛隊中央情報保全隊の三枝と名乗る男が現れ、潜入捜査を依頼する。対象は、元陸上自衛隊幕僚長の末次真二郎。中国人武装集団による尖閣諸島占拠に対する前政権の弱腰対応に公然と異を唱え、前首相を“腰抜け総理”と呼んで大騒動を巻き起こし、自衛隊を追われたのち、〈日本刷新国民の会〉なる保守系の市民団体を立ち上げた(と説明すれば、モデルの見当はつきますね)。その〈国民の会〉にスパイとして潜入し、末次の動向を監視しろという。報酬は、自衛隊への復職と、妻の美樹に対する最高レベルの医療ケア。啓志は不本意ながらその依頼を受け、少しずつ末次に近づいてゆく。
小説の焦点は、前首相が死の直前に書き残したという、尖閣事件に関する文書。アメリカから強い圧力があったことが記されているらしい。現首相の柘植友里恵は、高い内閣支持率を背景に、この文書を公開し、対米追従外交からの路線転換をはかるのではないかと噂されているが……。
大治郎の事件捜査と、啓志のスパイ活動。両者のドラマは次第に加速し、ついにそれが交差するとき、意外な真実が浮かび上がる。後半の展開は手に汗握るスペクタクル。それでいて、今の日本なら、ひょっとしてこういうこともあるかも――と思わせるギリギリの綱渡りが絶妙だ。