長きにわたり、日本のエンタメ界をけん引してきた作詞家でプロデューサーの秋元康さんと、来年3月で放送作家をやめると宣言した鈴木おさむさん。そんな二人が若手時代を振り返る。AERA 2023年11月20日号より。
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鈴木:若手のことも応援したいです。
秋元:若手を応援したいというのは、すごくわかる。僕たちは出会った人の縁で今の仕事をしているから、返したいよね。僕は「作詞家」、おさむは「放送作家」と名乗ってきたけど、免許事業でも資格が必要でもないから、職業として認められたことがない。僕が作詞家だと思えた根拠は、美空ひばりさんが「川の流れのように」を「いい詞ね」と言ってくれたことだから。
鈴木:僕も感謝していることがたくさんあります。23歳の時、ニッポン放送の「鶴光の噂のゴールデンアワー」でサブ作家だったのですが、チーフ作家になかなかなれなかったんです。ニッポン放送の野々川緑さんに「チーフ作家になりたいなら、毎週水曜日に放送されない台本を2時間分書いてこい」と言われたんです。10時間くらいかけて書いて持っていくと、野々川さんは毎回、赤でびっちり添削してくれました。半年経った時に「もう大丈夫だ」と言ってくれて、チーフ作家に推してくれたんです。めちゃくちゃありがたかったですね。32年間の放送作家生活で思い出すのは手がけた仕事のことよりも、誰かが自分にベットしてくれたことですね。
秋元:そうだね。僕の場合は、「ザ・ベストテン」などを手がけた奥山?伸さん(故人)、ニッポン放送元社長の亀渕昭信さんらにお世話になった。フジテレビ社長の港浩一さんと出会ったのは、お互い20代の頃。いつもフジテレビの前の居酒屋で打ち合わせをして、僕が出したアイデアを港さんが割りばしの袋にペンでメモしてたの。港さんが最近こう言ってたよ。「あの時の俺らに言ってやりたいな。お前はフジテレビの社長になり、秋元は紫綬褒章を取るぞ、と」。絶対に信じないだろうけど(笑)。
(構成/編集部・古田真梨子)
※AERA 2023年11月20日号より抜粋