2001年の晩秋、エリック・クラプトンが大規模なワールド・ツアーの締めくくりとして日本各地を回っていたとき、ジョージ・ハリスンが亡くなっている。長くコンサート活動から離れていたジョージをきちんとした形でステージに立たせることを目標に(そして、彼自身が悲劇から立ち直るために)行なわれた91年の日本公演から、ちょうど10年後のことだった。
正確には11月29日。「ロサンゼルスの友人宅で」ということだから、30日に武道館のステージに立ったときには、もう知っていたはずだ。僕が知るかぎり、親友の訃報について語ることはなかったようだが、それにしても、なんて劇的な人生なのだろう。自身の古希を祝うロイヤル・アルバート・ホールでの連続公演(2015年5月)の直前には、ご存知のとおり、師匠=B.B.キングが亡くなっているのだ。
翌02年の春ごろ、ジョージの妻オリヴィアや共通の友人でもあった出版人ブライアン・ロイランスらと話すうち、メモリアル・コンサートの構想が固まっていったという。『24ナイツ』のスペシャル・ボックスも手がけているロイランスからは「君がやるしかない」といわれ、結局、クラプトンは音楽監督を引き受けることとなった。そして、死去からちょうど1年後の2002年11月29日、ジョージと関わりのあった多くのミュージシャンたちによるコンサートがロイヤル・アルバート・ホールで行なわれたのだった。
タイトルは『コンサート・フォー・ジョージ』。いうまでもなくコンサート・フォー・バングラデシュのイメージと重なるものであり、その71年夏の歴史的イベント同様、インド音楽セクションで幕を開けている。ラヴィ・シャンカールと娘のアヌーシュカ(ノラ・ジョーンズの異母妹)を中心に展開されていくのだが、クラプトンも終盤、アコースティック・ギターで参加。あくまでも彼らしいフレージングでインドの旋律も聞かせている。
インターミッションのあと、ジョージが愛したモンティ・バイソンのコーナーがあり、コンサート後半がスタート。息子ダーニ・ハリスン、クラプトン、ジェフ・リン、ジム・ケルトナー、レイ・クーパー、アンディ・フェアウェザー・ロウ、アルバート・リー、ジュールズ・ホランドらによるバンドを核に、ジョージが書いた名曲がつぎつぎと歌われていく。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ビリー・プレストン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スターも参加。ポールとエリックが絶妙なハーモニーを聞かせる《サムシング》や《ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・フィープス》など、多くのドラマを残した。
翌03年秋に相次いでリリースされた2枚組ライヴ・アルバムと映像版で音をまとめたのは、トラヴェリング・ウィルベリーズのバンド・メイトでもあったジェフ・リン。グラミー賞も獲得した映像版は、同時期、日本青年館で特別公開され、来日中だったクラプトンも参加している。[次回6/24(水)更新予定]