『藤井聡太のいる時代 最年少名人への道』
朝日新聞出版より発売中
わずか69手。2023年5月21、22の両日に福岡県飯塚市で行われた第81期将棋名人戦七番勝負第4局は、異例の短手数で決着した。名人を3連覇中の渡辺明が1日目から積極的に攻めたが、六冠の挑戦者、藤井聡太の対応が的確だった。対局を振り返る感想戦は22日午後6時前に終わり、外に出ても空はまだ明るかった。
取材は早く終わったが、まだ書くべき原稿は残っている。でも、今日は少しのんびりしてもいいだろう。ホテルの近くの居酒屋に1人で歩を進めると、店の前に顔見知りの人たちの姿があった。大盤解説会に足を運んだ将棋ファンの一行だった。
「あれ、村瀬さん!」
「どうして1人なの? 友達がいないの?」
お酒が入っているとあって、既にテンションが高い。気がつけば、一行のうちの女性5人と私の計6人で、その居酒屋のテーブルを囲んでいた。
近年、タイトル戦の現地で行われる前夜祭や大盤解説会がにぎわっている。言うまでもなく、彗星のように現れた藤井聡太という1人の棋士の影響だ。この日バッタリ会った5人も、藤井の快進撃を機に将棋への関心が高まり、ファンになったようだった。「推し」を応援するために全国各地を巡る熱意は半端ではない。
藤井の親の世代に当たる彼女たちは、藤井の魅力や各地で見聞きしたことを語ってくれた。この日の大盤解説会では、解説を務めた八段の中田功が「この局面で投了します」と言った数分後に渡辺が投了し、盛大な拍手が湧き起こったという。普段は棋士を取材する機会が多いが、ファンのこうした話を聞くのも面白い。読者はどんな記事を読みたいのか、棋士のどんな一面を知りたいのか――。そう考える契機にもなる。
朝日新聞日曜朝刊の連載「大志 藤井聡太のいる時代」は2018年に始まった。「藤井聡太の歩みと、彼を中心とした将棋界を描く」のが狙いで、掲載回数は200回を超えた。2020年に続き、今回2回目の書籍化が実現したのは無上の喜びだが、これほど広く読まれるようになるとは思っていなかった。
連載は、将棋を担当する東京と大阪の記者3人で手分けして書いている。今日起きたことをすぐに書く速報とは違い、読み物に仕立てるには一工夫が必要だ。対局に臨んだ時の心境を当事者に改めて尋ねたり、過去のコメントを掘り起こしたりして、何か新しいことが見えてこないかと思考を巡らせる。「既知の事実だけど、これまでとは捉え方が異なる文章が書けたのでは?」。そんな手応えをしばしば感じられるのが、やりがいの一つだ。