西村いくこさん
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「研究生」として学費を払って研究をする生活を12年続けたあと、41歳で国立研究所の助手となり、助教授を経て49歳で京都大学教授となった西村いくこさんは、植物学の世界で新発見をいくつも成し遂げてきた。どんなふうに家庭と両立させてきたのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)

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>>【前編:始まりはカボチャの種 「女の人は無理だよ」と言われ教員に落ち続けた女性研究者が京大教授になるまで】からの続き

――ご両親が動物学者だったから、学者以外の道は考えなかったということですか?

 考えなかった。父は「何をやってもいいけれど、プロになれ」と言っていました。また、「研究者は自分の好きなことをして給料をもらえる。贅沢だ」なんていうようなこともよく言っていました。

――大阪大学に入学されたのはなぜ?

 近いから(笑)。もう一つはねえ、京大から阪大に移籍した父が「旧態依然としていた京大の生物学とは異なった生物学科が阪大に誕生した」ということをよく話していたからですね。私が入学する当時、阪大は生化学の中心地と言われていたんです。当時の生物学は観察が中心でしたが、阪大はそうではなかった。生物学が、観察から分子を見る科学に変わりつつあった時代です。

 それで私はカボチャの種の研究をしたわけですが、もともと研究したいのは生物だったので、学位を取得したあとは動物の研究に宗旨変えしようと、岡山大学の臨海実験所に行って研究生になったんです。でも、そこは2カ月で辞めて阪大に戻って、しばらく技術補佐員を務めました。名古屋大学農学部の助手をしていた西村と知り合ったからです。

第一印象は「優秀な人やなあ」

――どういうきっかけで?

 双方の指導教官が知り合いだった。当時ですら時代錯誤でしたが、見合いに近い形で、名古屋で開催された研究会で紹介されました。

――へえ、どんな第一印象でしたか?

「なかなか優秀な人やなあ」と(笑)。それで、博士号を取った翌年に結婚して、4月から名大の研究生になりました。阪大でのカボチャの研究は生化学でしたが、夫は「細胞生物学がいい」とアドバイスしてくれた。モノを見るのではなく、モノが働いている現場を見る。まさに生物らしい研究です。農学部だから圃場を使えたのが良かった。しかも、研究生は、ポスドクとは違って、学費を払っている身分ですから(笑)、好きなことができるわけです。

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保育所が親も育ててくれた