親は着替えやトイレやお箸の上げ下ろしや挨拶の仕方など、日常生活で必要な知識やスキルだけでなく、さらに生きてゆくのに役に立つ、親が自らの経験で学んださまざまな知恵や知識も、子どもとの生活の中で、意識するとしないとにかかわらず、教えてゆきます。それは自営業で培った仕事の極意や歌舞伎のお家芸ばかりではありません。「教える」という人間の営みは、学校でなされることである以前に、本来、生殖や食物分配と同じく、生物としてのヒトが生き延びるために獲得した本能的ともいうべき生存ストラテジーなので、ヒトは知らず知らずそれを行っています。それは損得を超えた利他的な行為、ヒトであればどんな悪人でも、どんな自分勝手な人でも他者に対して自然にもつ愛情の発露であり、これを古代ギリシャの哲学者プラトンは「エロス」と名づけました。エロスは、その情念が肉体に向かえば性愛に、そして魂に向かえば愛智(「フィロソフィア」、つまり哲学と同じ意味の、知を求める心)と教育となってあらわれると考えたのです。

映画『万引き家族』で語られた「教育」

 このことを鮮烈に描いていると私が強く感じたのが、2018年カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞し、日本アカデミー賞でも8部門最優秀賞を受賞した是枝裕和監督の映画『万引き家族』です。この映画の中で、幼いころにどこからか連れて来てしまったらしい血のつながっていない子どもに万引きの手口を教え、家族ぐるみで万引きを繰り返して生計を立てる父親の姿が描かれます。リリー・フランキー扮する、生きることに不器用なこの父親は、しかし子どもへの愛情だけは哀しいほどに純粋で素直で、それが本当の家族愛とは何かを問うこの映画のテーマにも結びついています。やがてこの犯罪は暴かれ、家族はみな警察の取調べを受けることになります。ここで「子どもに万引きをさせるのはうしろめたくなかったですか」と正論で諭すように問い詰める刑事に、この父親を演ずる男が「オレ……、ほかに教えられることがないんです」とうつろにつぶやく場面に、私は嗚咽をこらえることができませんでした。もちろんこんな教育は非倫理的です。しかし財産も教養もないこの惨めな男が、子どもに与えることのできる唯一の知識が万引きの手口だったという、教育の生物学的本質の生む愛情の表し方のあまりの哀しさに、心を強く打たれたのでした。

 とはいえこれは教育のかなりデフォルメされたすがたであることは言うまでもありません。親はふつう、賢く感受性豊かな子に育てようと、絵本の読み聞かせをしてあげたり、家庭教師や塾や予備校にお金を出すなどのいろいろな工夫をします。あるいは何か才能をみつけるためいろいろなおけいこごとに通わせたり、少しでも多様な経験をさせようとアクティヴィティーに参加させたりするかもしれません。

 親が心を砕いて子どものために用意するこうした教育的な働きは、果たしてどのくらい期待通りの結果に結びつくのでしょうか。

安藤 寿康 あんどう・じゅこう

 1958年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。慶應義塾大学名誉教授。教育学博士。専門は行動遺伝学、教育心理学、進化教育学。日本における双生児法による研究の第一人者。この方法により、遺伝と環境が認知能力やパーソナリティ、学業成績などに及ぼす影響について研究を続けている。『遺伝子の不都合な真実─すべての能力は遺伝である』(ちくま新書)、『日本人の9割が知らない遺伝の真実』『生まれが9割の世界をどう生きるか─遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋』(いずれもSB新書)、『心はどのように遺伝するか─双生児が語る新しい遺伝観』(講談社ブルーバックス)、『なぜヒトは学ぶのか─教育を生物学的に考える』(講談社現代新書)、『教育の起源を探る─進化と文化の視点から』(ちとせプレス)など多数の著書がある。

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