幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
この記事の写真をすべて見る元治元年(1864)年二月、公用で上京した富沢忠右衛門という人物が、同門で旧友の近藤勇らに面会するため、壬生の屯所を訪れた。ところが山南敬助は「病に臥し逢わず」と日記に書いている。病気だったというのだ。
その後、富沢は四月に離京するまで何度も近藤勇らと酒宴をともにするのだが、病が癒えずにいたのか、一度も山南は同席していない。
同年六月の池田屋事件、七月の禁門の変にも出動せず、新選組が伊東甲子太郎らの新入隊士を得て、十一月に作成した名簿「行軍録」にも名前がない。前年十月以前に、山南は大坂の呉服商・岩城升屋で賊と闘い、心身双方か、その一方かに傷を負ったようなのだ。そのために富沢と会えず、以後も体調は一進一退を繰り返していたものと思われる。
そこへ伊東らを連れて帰京した近藤は、松本良順の教えを受けて親幕路線を強め、禁門の変で長州兵を匿うなどした反幕派の西本願寺へ屯所を移そうと計画する。山南はこれに反対し、新選組を脱した。
子母沢寛の『新選組物語』によると、慶応元年(1865)二月二十一日に脱走、二十二日に追っ手となった沖田総司とともに帰隊、二十三日に前川邸の一室で切腹したというのだが、これを裏付ける記録は残されていない。
永倉新八は大津(滋賀県)から沖田が連れ帰ったとする。山南が大津にいたのは事実だろうが、屯所から脱するばかりが「脱走」ではない。転地療養中の大津から、帰隊命令に従わないのも「脱走」である。
この行為によって山南は反幕姿勢を隊内に宣言し、従容(落ち着いた様子)として切腹の場に臨んだに違いない。
○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から