最近、よく耳にする「自己実現」という言葉。しかし、心理学者の榎本博明氏は「だれもが知っているつもりになっているかもしれないが、誤解が多いよう」だという。新著『60歳からめきめき元気になる人 「退職不安」を吹き飛ばす秘訣』(朝日新書)から一部抜粋、再編集し、解説する。
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自己実現の15の要素
私は若い頃に、心理学者・マズローの自己実現理論に基づいて、自己実現傾向を測定する心理尺度を開発し、各種学会で発表したりしてきた。だが、そのような立場からすると、このところ世間で言われている自己実現という言葉は、本来の意味とはまったく違ったニュアンスで用いられているように思われてならない。
自己実現している人の例として、メディアで取り上げられる著名人をイメージする人が多いようである。しかし、仕事で活躍している実業家や政治家、芸能人などをみていて、自己実現とは無縁の、むしろ利己的な欲望を剝き出しにした見苦しさを感じることがある。
あるいは、良心的に仕事をしていても、切羽詰まった感じで気持ちに余裕がなかったり、周囲に振り回されたりして、とても自己実現とは無縁の生活をしているとしか思えなかったりする。
自分なりに納得できる生き方を模索するうえで、自己実現とはどのようなことを指すのかについて、改めて考えてみる必要があるだろう。
マズローは、自分の可能性を十分に実現している人間を自己実現的人間と呼び、精神的に健康な人間の極に置いているが、そのような自己実現的人間がもつ特徴として、つぎのようなものをあげている(マズロー著 小口忠彦訳『人間性の心理学』産業能率大学出版部)。
(1)現実の正確な認知
(2)自己、他者および自然の受容(ありのままを受け入れることができる)
(3)自発性
(4)問題中心性(自己にとらわれずに課題に集中できる)
(5)超越性(周囲に巻き込まれずにプライバシーを保てる)
(6)自律性
(7)鑑賞力の新鮮さ
(8)神秘的体験
(9)共同社会感情(人類との一体感)
(10)少数の友人や愛する人との親密な関係
(11)民主的性格構造
(12)手段と目的の区別(倫理的感覚)
(13)悪意のないユーモアのセンス
(14)創造性
(15)文化に組み込まれることに対する抵抗
退職後こそ、自己実現への道に踏み出す条件が手に入る時期
前項で自己実現に向かううえでの基本的な要素を示したが、たとえば「(7)鑑賞力の新鮮さ」というのは、何気ない日常の中でちょっとしたことにも感動する心をもつことを指している。
桜の花の美しさに感動する。道端の雑草を見て、生命の逞しさを実感する。餌をついばむ雀を愛おしさを込めて眺める。そんな心をいつの間にか失ってはいないだろうか。それでは自己実現への道を歩めない。
「(2)自己、他者および自然の受容」も自己実現の基本的な要素だが、その中の「自己の受容」を考えてみると、自己実現を勘違いして、活躍したいのに活躍できない、輝きたいのに輝けない、どうしたら活躍できるのだろう、どうしたら輝けるのだろうといった葛藤を抱えてきた人は、ありのままの自己を受容できず、自己にとらわれすぎている。それは、「問題中心性」という観点からしても、自己にとらわれ本来の課題に集中できないことになる。これでは自己実現から遠ざかってしまう。そのような人も、職業生活を終えることで、ようやく地に足の着いた生活ができるようになる。
利潤追求のため、あるいは権力獲得のために戦略思考に走り、ときにライバルを蹴落とすような策略をめぐらしたり、消費者に必要のないものを買わせようと策を練ったりしてきたという人も、本人は仕事で自己実現を目指してきたつもりかもしれないが、じつは自己実現から遠ざかる生き方にはまっていたのである。
そのような生き方は、「(9)共同社会感情」や「(11)民主的性格構造」、そして「(12)手段と目的の区別」といった自己実現の基本的な姿勢に反するものであり、自己実現から遠ざかる姿勢と言わざるを得ない。職業生活を終えることで、もうそのような見苦しい姿勢を取る必要はなくなったのである。
今はグローバル化の時代だし、グローバルに勝ち残るにはきれい事を言っていられない、どんな手段を使ってでも勝たなければならないといって事業拡張のために策をめぐらしてきた人もいるだろう。そんな人は倫理観を失っているという意味で「(12)手段と目的の区別」ができていないばかりでなく、「(15)文化に組み込まれることに対する抵抗」という自己実現の基本的な姿勢をもたず、いかに金儲けがうまくいっても自己実現とは無縁の生き方をしてきたことになる。そのような人も、職業生活を終えることで、ようやく自己実現への道に踏み出すことができる。
「(10)少数の友人や愛する人との親密な関係」も自己実現の基本的な要素だが、仕事にうつつを抜かして、親密な関係をもつことができないままに定年退職まできてしまったという人もいる。仕事絡みの人脈づくりに励むばかりで、仕事を離れた親密なつながりがないようでは、いくら仕事で成果を出したとしても、非常に淋しい人生になり、自己実現とはほど遠い。
こうしてみると、自己実現という言葉がいかに曲解されて世の中に広まっているかがわかるだろう。
私生活の中で、趣味に浸ったり、親しい友だちと楽しく過ごしたり、恋人や配偶者と気持ちを共有したりして、充実した心豊かな日々を過ごす。もちろん、そこに仕事が加わってもよいし、ボランティアによる社会貢献活動が加わってもよい。そのような過ごし方こそが、ごくふつうに可能な自己実現への道と言えるのではないだろうか。
その意味において、定年退職後は、まさに自己実現への道に踏み出すのに絶好の時期と言ってよいだろう。
榎本博明 えのもと・ひろあき
1955年東京都生まれ。心理学博士。東京大学教育心理学科卒業。東芝市場調査課勤務の後、東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授等を経て、MP人間科学研究所代表。『「上から目線」の構造』(日経BPマーケティング)『〈自分らしさ〉って何だろう?』 (ちくまプリマー新書)『50歳からのむなしさの心理学』(朝日新書)『自己肯定感という呪縛』(青春新書)など著書多数。