IngressというスマホやiPhoneで遊ぶゲームがある。レジスタンス(青)とエンライテンド(緑)の陣営が、街の中に存在するポータルと呼ばれるたくさんの拠点を取り合って陣地を広げる、スタンプラリー要素のある位置情報ゲームだ。ポータルに設定されているのは名所旧跡ばかりではない。ヘンテコな看板、オブジェ、小さな地蔵、駅、ビルなどさまざま。現実の道路地図をもとにした画面に点在するポータルを探して歩いていると、「よく知っていると思っていたところに、こんなものが!」という発見があり、新しい街歩きの楽しさを教えてくれるゲームなのだ。白い道を浮かび上がらせた黒い画面に点在するポータルが、青や緑の炎をボォーッと立ちのぼらせる。その仮想現実上の街と、スマホから目を上げた時に広がる現実の光景が重なる感覚は、Ingressが存在する以前にはなかったものだ。都市ばかりが変容し続けるだけではない。そこにいる人間が都市から感受する何かも変わり続けているのだ。

 都市論や都市小説もまた然り。二世紀後半にしてすでにパウサニアスが『ギリシア案内記』を書いたくらいで、人間は都市について書き記さないではいられない生き物であるらしく、これまでに数多の都市論や都市小説が生まれ、往時の人々の“都市の感受性”<(c)川本三郎>を明らかにしてきた。そこに新しく参入したのが、恩田陸『EPITAPH東京』なのである。

 語り手は『エピタフ東京』という戯曲を構想している作家Kで、彼女はこの小説の中で自分を〈筆者〉と称している。戯曲はとあるマンションのキッチンだけを舞台にした一場もので、登場人物はボランティアのお弁当宅配サービスをしている7人の女性だが、弁当づくりは隠れ蓑のようなもので、彼女たちには別の目的があるという設定。作家Kは、これを東京をテーマにした戯曲にしたいと考えており、近所のバーで顔を合わせる不思議な気配をまとった男・吉屋が言うとおり、この街は無数の死者の記憶でできているとも直感している。赤羽橋南の七叉路、将門の首塚、都内に無数にあるコンビニエンスストア、神保町、高尾山、羽田空港、永田町、渋谷、復元した東京駅丸の内駅舎、住宅街にある隠れ家的なバー、谷中、根津美術館といった東京の一角の他、千葉県松戸市にある東京都霊園、京都、大阪、神戸を巡り歩く〈筆者〉は思う。

〈都市の記憶の底を歩く。いや、泳いでいる。圧倒的な大きさで押し寄せる、未来の東京が見ている過去の夢の中を、必死に掻き分け、泳ぎ続ける〉

 戯曲『エピタフ東京』のことを頭の片隅に置きながら街を歩く〈筆者〉は、その街の今の奥にある過去やその街に今いない人々に思いを馳せ、安部公房や江戸川乱歩や永井荷風といった先人が描いた街を参照にしながら、自身の都市論を簡潔な文体で丁寧に提示していく。それら23のピースの中に幾つか挿入されているのが吉屋が主人公の物語。この吉屋の造形と登場が、これまでの都市小説にはなかったアクロバティックな仕掛けなのである。というのも、小説が幕をあけてすぐに明かされることだが、彼は吸血鬼なのだ。吉屋によれば〈本物の吸血鬼は歳も取るし肉体も消滅する。ただ、その意識が他者の肉体に継続していく〉のだそうで、大昔に仲間たちが血を吸っていたのは〈たぶんかつては血液が、いちばん情報量が多かったからじゃないか〉とのこと。ずっとずっと生きている吉屋は、自分同様この街の秘密を探している〈筆者〉にその一端を示すことを約束するのだ。

 挿入されるのは吉屋の物語ばかりではない。『エピタフ東京』の戯曲や上演メモ、烏森の人相・手相見の老人へのインタビュー、小説内世界における嘘か真かを判然とさせないゴジラ上陸のエピソードなど、作者の恩田陸はそれぞれ単独に読んでも楽しめる23のピースという本筋と、枝分かれしたサブストーリーを、つながりがないようである、つながりがあるようでない、どちらとも取れるゆるやかな関係で並置するのだ。

 この小説の中にはキャッチコピーとなるような東京はない。東京の墓碑銘/エピタフを考えあぐねる〈筆者〉はさまざまな場所を訪れては、東京について、都市について考えを深めていきながらも、決定的な定義は避ける。吉屋という魅力的な人物のことも、あえて東京に存在するひとつのピースとして扱い、深くは追わない。戯曲『エピタフ東京』は、ここから面白くなる場面から先は明かさない。物語はエピローグではなく「プロローグ・短い東京日記」という東日本大震災後数日間の〈筆者〉の体験記をもって唐突に終わる。

 物語に決着やオチを求める読み手は、「はっきり終わってくれないからモヤモヤする」という感想を持つかもしれないが、この徹底して断片的で非説明的な語り口こそが、解釈するそばから表情を変え、ほんの15分歩いただけで景色を変え、大勢の死者と変容する土地の記憶の上にあるこの大都市・東京の本質を示すものではないかと思う。そして、本書を読み終えた後のわたしは、現実の街に青や緑の炎を立ちのぼらせるIngressの光景を重ねるようになったのと同様、〈筆者〉と吉屋の精神の彷徨をまたそこに重ねるのだ。これは、東京/都市についての小説であると同時に、東京/都市に対する新しい感受性を触発する小説なのである。