その後、新選組は四条小橋で店を構える薪炭商の枡屋喜右衛門を捕縛した。枡屋は商売もしていないにも拘わらず相応の暮らしぶりで、家も広かったことから、新選組では兼ねてから不審に思っていたのである。

壬生の屯所に連行された枡屋は拷問にかけられる。これに耐え兼ねた枡屋は、自分は近江出身の尊王家・古高俊太郎であると自白した。宿泊場所を提供するなど、志士の活動の支援者だった。そして、枡屋の家宅捜索により発見された多数の密書から次のような計画が判明したことで、新選組は色めき立つ。具体的な日取りまで記されていたからである。
来たる六月七日、祇園祭の賑わいに乗じ、風の強い時を狙って御所に火をかける。慌てて参内してきた中川宮や松平容保を討ち、八月十八日の政変の仇を討つ。混乱に乗じて孝明天皇を長州に連れていく──という計画だった。
新選組による古高捕縛の知らせは長州藩邸にも入った。古高を奪い返そうという動きもあったが、長州藩留守居役の乃美織江はこれを必死に押しとどめる。
結局、市中に潜伏していた志士たちを集めて相談を持つことになった。会合の場所は三条小橋の池田屋である。
夜に入ると、長州藩士をはじめ尊攘派の志士たちが続々と集まってきた。古高の奪回も再び議論されたらしい。
京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇を長州に動座する計画があると知った新選組は会津藩にその旨を報告した。尊攘派志士たちの捕縛の許可を求めたが、合わせて応援も要請している。
だが、会津藩は志士たちの捕縛には二の足を踏む。これ以上、長州藩から恨みを買うことを恐れたのである。