食欲、情欲、嫉妬、傷つけてやりたいという悪意。肉を焼いた時に立ちのぼる脂臭さにも似たものが、この中編には詰め込まれている。でも人間はそういうものだ。どんな純愛物語にも感動的ストーリーにも打ち消すことのできない生々しいものを、私たちは宿命的に抱えている。それを森さんは「ネイチャー」と表し、きっとこの台詞が物語の心臓部だと思うのだが、主人公の親友美也が肉を焼く煙の漂う中でこう言うのだ。
「人はそれぞれのネイチャーのままに生きればいいし、どっちみち、それしかできないんだって」
私も私のネイチャーを持っている。しょっちゅうそれに振り回されては自己嫌悪に陥ることをくり返してきた人間なので、この一文を読んだ時、とても救われた。
肉を食らう女二人が迎えるラストが、私はとても好きだ。褒められたものではないのかもしれないが、人間、とりわけ女が持つ、柔軟な野性のパワーを見せつけられて、なんともスカッとする。
森さんは惚れ惚れするほど多彩な作品を書かれる人だ。しかし「人はどこまでも独りだし、生きることは少なからぬ痛みを負う」という感覚は、一貫して根底に流れていると感じる。それを証明するように森さんは作品世界において容赦をしない。「ポコ」では小4の少年に、病に冒された愛犬が死にゆく壮絶な姿を見つめさせる。私が森さんに出会った作品である『つきのふね』(一九九八)では、すれ違い、傷つけ合う少年少女、生きることに痛めつけられる青年の姿が克明に描かれる。あまりに巧みな筆致は時に読んでいて苦しくなる。けれど、思えばそれが現実なのだ。不公平で、弱い立場の者が痛めつけられ、どうしても孤独から逃れられない場所で、私たちは毎日サバイバルしている。
それでも森作品は悲しみと絶望だけでは幕を閉じず、いつも最後に美しい光を見せてくれる。その光は決して都合のいいものではなく、ささやかで、シビアな世界に生きる私たちにも手が届くかもしれないと思わせてくれる。カラーも切り口も違う作品たちが共通してそんな光を読者の胸に残すのは、森絵都という書き手が、愛しているからなのだと私は勝手に思っている。人間を、人生を、まるで違うネイチャーのもとに生きるあらゆる生命たちがしのぎを削りながら、肩を寄せながら、一緒に暮らしているこの世界を。
容赦ないが愛はあるから、森さんの紡ぐ物語はやさしい。どんなあなたでもいいし、どんなことが起きても何とかなるさ。そう言ってくれるように、やさしいのだ。