瀬戸内海に面した愛媛県菊間町(現・今治市)で1960年12月に生まれ、松山市の中高一貫校の愛光学園から東大工学部都市工学科へ進み、83年4月に入社。コンピューターシステムの構築や台湾での中国語研修、北京の外国人用住宅建設プロジェクトを経て、87年5月に化学プラント輸出第二部へ異動し、藤木さんの部下となる。


 担当したのは、インドネシアのスマトラ島に石油精製化学プラントをつくるプロジェクト。ここで、「世界の猟場で事業機会を探す狩人」になるための基本を学ぶ。「獲物がいる間は、帰ってくるな」との藤木さんの言葉を安永流に受け止め、航空券は割安のジャカルタで東京への往復を買い、常に机の引き出しにジャカルタ行き復路券を入れて「明日いけ」に備えていた。


■「上司は女性」で「同僚も女性」は全社で初めてか


 90年3月から約3年いた米テキサス州のヒューストン支店でも、上司は支店長というより、東京の本社にいた藤木さん。時差の関係で、何度も真夜中に電話で起こされた。でも、その後に2年ほどワシントンの世界銀行へ出向したときは、全く別タイプの上司と遭遇する。


 本社から世銀の面接を受けるように打診され、ワシントンへ行って会った相手は米国人女性で、職場へいくと、上司の課長だった。以来、「自分は三井物産で初めて女性に仕えた男性社員だろうな」と思っている。


 彼女は、経営学修士号(MBA)を持ち、ばりばりの仕事師だった。同僚も半分は女性で、様々な国から集まった「多国籍軍」。仕事は発展途上国のインフラ整備の後押しで、エジプトの観光資源開発プロジェクトで組んだ相手はインド人女性だ。


 彼女は妊娠していて、子どもを産んで1カ月で仕事へ戻ってきた。こちらに任せておけないと思ったのかもしれないが、「これは私の仕事、私がやり遂げたくて、こうやってきたのだ」との気持ちを、強く感じた。この話を社長になって社内で紹介し、「それくらいの気持ちでやってほしい」と言ったら、「うちの社長は、出産後1カ月で仕事に戻れと言っている」と誤解された。


 日米では、共働きの家庭が小さい子どもの世話をしてもらう仕組みが全く違うので、一緒に論じるつもりはない。そうではなくて、あのインド人女性くらいの気持ちがないと、ワークライフバランスの名のもとにライフに寄り過ぎていく傾向が、男女ともあるのではないか。ちゃんとバランスをとってほしい、との意図だった。でも、妻にこの話をすると、必ず「あなたは子どもの世話もできないのに」とたしなめられてしまう。

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